日本人の身・心・霊シリーズを読んできたが、これでラスト
◯心身解脱耳根円通法秘録
耳根円通法は、原坦山という多分幾分異端気味の学僧⇒原田玄龍⇒木原鬼仏と、受け継がれた方法という
この方法の検証は、原田玄龍がこれをやって壮健であったということくらいしかなさそう
木原鬼仏は精神療法の人で、自らの病弱を精神療法で克服したそうだが、別に耳根円通法でそうなったわけではない
元々順序良く書かれてなくて、しかも仏教専門用語が散りばめられているので、分かりにくい
当時の修養法が下丹田を鍛えるものばかりだったのに対して、これは上丹田⇒中丹田⇒下丹田と鍛えていくのが特徴的である
一応仏教に基づいているらしい独特の生理学を、まあ頑張って解説してみよう
原坦山の「脳脊異體論」「惑病同源論」とかがベースである
「陀那」というナゾの粘液がある、という
陀那は本来栄養となるものであるが、流れが停滞すると、精神においては無明煩悩となり、身体においては病気になる
腰椎、脊髄から陀那が後脳(小脳)へ昇流している、後脳から前脳(大脳)へ入る
前脳で陀那が停滞すると、眼耳鼻舌の病気、腫れ物(身)、無明煩悩(意)が起こる(六識:眼耳鼻舌身意)
そこで、耳根に意念を凝らし、停滞を除くべきである
陀那は前脳から胸・腹へ流れる
胸で停滞すれば、肺・心臓の病になる
腹で停滞すれば、胃腸等の腹部の病になる
というわけで、耳根円通法は健康法である
が、無明煩悩が陀那の停滞であるとすれば、悟りは陀那が滞りなく流れることであり、耳根円通法は悟りのための修行法でもある
後脳は不覚心であり、前脳は本来覚心であるが、陀那が前脳に入ることで、それらの混ざった和合心を生じる
和合心が愛憎愁い恐れ、過去現在未来の幻想を起こす
これを断つのが耳根円通法である
腹部に定力を用いると頭や胸に暴漲を起こし、胸部に定力を用いると頭に暴漲を起こし、脳部に定力を用いると後脳脊髄に暴漲を起こす(陀那の本来の位置)
心は胸や腹にあるのでなく、前脳にある
下丹田を鍛えても、六識にしか届かない
定力とは、一定の身所に心気を込め、力を集中すること
奥歯を軽く合わせて歯根に力を込め、耳根に力を傾注し、後脳へ全力を集中スべし
奥歯耳根後脳は一直線、本の図によると耳根は翳風穴を指してるように見える
朝昼夜三回、10〜15分。普通5〜7日、遅くとも二週間の修行で通徹する
耳根が通徹したら、胸・腹を修行する
膝の間を空け正座し、手を方に引き上げ、引き締めながら、胸部に定力を注ぐ。この際に後脳にも定力を入れる
同様に正座し、手をももにおいて、まず耳根に定力を入れ、心持ち腰から股にかけて力を入れ、腹部を引き締めて内部に向かって力を入れる
首は垂直よりも前か後ろに傾けたほうが耳根によく定力が入る
両耳同時にできない人は、右からまたは左から入れても差し支えない
胸・腹も修行できたら、耳根胸腹三箇所同時に定力を入れる
◯心身修身三摩地
なんか論旨が整理されてる本じゃないかな〜
著者は一応大乗仏教の立場の人だと思われる
文明やら当時の世情を批判して、日本古来のものを尊ぼうとしつつ、ページの大きい割合を仏教(著者は大乗の立場)の説明に割いて、「これじゃ、インド・中国のものじゃん」となりつつ、仏教の経典にある神通力は本当にあるという話になり、著者の神通力体験が紹介され(ここはまあまあ面白い)、最後に申し訳程度に健康における心の力を説く
世情の批判はよろしいんだが、仏教の教えとあんま繋がりがないと思うのよな
あと、大乗が慈悲心を持って小乗よりも偉い(著者がそういう感じ)とするのも、著者の紹介する仏教の教義からして論理矛盾すると思う
自分が仮のものであるならば、他人も仮のものであって、そうであれば対象がないんだから慈悲心も糞もなくない?
三摩地に入るのに、数息とか念仏観仏とか、多分仏教では割とオーソドックスなやり方が書いてある
仏教の説明が七割くらいかなあ
だから、強いて言えば仏教の本かね?
6歳の超人的な計算のできる神童(この時代にも居たんだね)を紹介したり、著者のサイコメトリーや透視や予知夢(詳しく書いてないのでわからんが、仏教の修行して、著者が多少超能力が使えるようだ)、また妻が著者の母親のメッセージを自動書記し先祖の墓を発かれたことを知らせたとか
ある老人が湯に手を入れても(観衆が手を入れると火傷した)火鉢に飛び込んでも炭を掴んでも火傷しない、刀を分でも切れないとか(他の本にはこれらの偽霊術の種明かしが載ってるが、ここでは本物の霊術ということだろう)