◯浄我の祈念
これも療法の本じゃないなあ
宗教、スピリチュアルの本
ただ、何かベースとなる既存宗教の教えはなく、著者の直感によって書かれているようだ
独断を並べ立てているだけで、あんまり説得力のある書き方ではない
が、斎藤一人とかニューソートに似ている感じがしなくもなく、ある程度以上は有効だと思う
祈念することによって、必ず健全と幸福とが求められる
大人物は、神仏の祈念を怠らなかった
正当に神仏を祈念するならば、必ず麗しい人生が開かれると断言して良い
祈念と念願とを知らぬ人は、必ず不運や災厄に苦しめられる
多数の人から恨みを受けるとすれば、その人の一身一家には、必ず不幸が続出する
自分が明るくなったような感じがしたり、強くなったような感じがしたり、霊力が加わってくるように思えたり、何となく愉快でたまらぬような気分が湧いたりすれば、運気を招く動機となる
不運を常に嘆く人は、不運を招く念願をしているに等しい
心を明るくして幸運を絶えず念ずる人へは、必ず幸運が見舞ってくる
今日の生活は、心に描いた念願の結果
毎日身の不幸を嘆き、人を羨み、何の信仰もなく愚痴と不平ばかり言う人があったとする。心身が汚れて、決して幸運の人とはなりえない。不幸の来ることを祈念したと同じことだから
神仏が何だ信仰や祈念などはバカバカしいという人は、やはりそれも一種の信仰に似たものであるから、それに似た運気が来る
神聖な祈念をもって自己の浄化に努め、健全と幸福の念願を続けて、人知れぬ心の富を築いて行かねばならぬ。それが表面どんなであっても、最も賢い生き方を知る人である
毎日つまらぬ愚痴をこぼしている人は、神に愚痴という祈りを捧げていることで、愚痴通りの人生を授けられる
毎日不平を言う人は、不平の祈念をしているに等しいから、一生不平の生活に投げ込まれる
困苦や災難は変則な祈念を変則とも知らず、自分勝手に毎日知らずして祈り続けた結果だと見るがよい
開運の秘訣は、神聖の神秘を祈念しているという落ち着いた安心が必要なのである
幸福を喜ばぬ人、感謝しない人の所へは、次の幸福はやってこない。小さな幸福でも、これを心から喜ぶ人は、二度三度重ねて幸福が来る
自己の幸福なる点を発見して感謝する習慣をつけておく必要がある。幸福観は幸福を招く
愛なり親切なり明るさなりを隣人に施そうとして見給え
愛と親切と明るさとを施さんとするならば、その心に霊気を増し、健全の霊気体にみつるであろう
病人や不幸の人についてたくさんの経験をして見た結果によると、尽く不浄の霊の所有者に多いことが分かった
不浄の霊の持ち主と交渉する時は、知らぬ間に自己の霊が汚される恐れがある
浄い心の持ち主は明るい笑顔をしておらねばなりません
鏡を見て浄心と浄顔とを作る人は必ず幸運を得ます
心身清浄 全我霊格
霊光放照 神力到来
浄念浄行 念通妙力
霊交浄霊 健全幸運
この四句を唱えるのもよいそうだ
◯心身修養療法原論 附・桧山式療養法
非常に無駄の多い本
古今東西の修養法を見ていき、最も優れた修養法を考える趣旨なのだろうが・・・
孔子、子思、孟子、荀子、老子、関尹子(「老荘は知られていても関尹子を知るものは少ない」とか言ってるけど、一般には偽作とされている)、列子、荘子、董仲舒、韓愈、王安石、周敦頤、張載、程頤、朱熹、陸象山、王陽明
仏教
ギリシャの自然哲学、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ガレヌス、新プラトン派、スコラ哲学、パラケルスス、ベーコン、ホッブス、ロック、バークレー、デカルト、ライプニッツ、ヴォルテール、コンディヤック、ラ・メトリー、ルソー、ハートリー、エラスムス・ダーウィン、ヴォルフ、カント(かなりページを割いてある)、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、ヘルバルト、ショーペンハウエル、シュライエルマッハ、クーザン、ジュフロワ、コント、ミル、スペンサー、フェヒナー、ベルクソン、オイケン
これらの思想家・哲学者の説が紹介されている。「あれ、私は思想史の本を読んでたんだっけ?」ってなるよ
明らかに要らないんだよな
最終結論である桧山式療養法は「附」とあるように、全体の5%ほどの分量しかない上に、内容は当時流行っていた療法のやり方のいいとこ取りを試みたようなもので、古今東西の思想哲学から導かれたものでも全然なく、どう弁護のしようもなく無駄(日本人の身・心・霊シリーズにおいては、療法の世界になぜかこのような哲学的な努力があった、ってのがポイントなのかも)
うーん、学問知識を並べ立てて、自分の療法に泊を付けたかったんだろうか?
ただ、このように古今東西の思想哲学を紹介し終わった後で、心霊主義が紹介されているのは面白い
宇宙とは何かについて「一」であると論じているが、桑原の説の延長だろう
心理学に関しては、当時の催眠術とかをベースにしてるのかな?この本の中では、中々面白い部分
医学に関しても、色々細々書いてあって、まあ、無駄。桧山式療養法を実践するのに必要ないし
儒家、老荘家、仏教、キリスト教、神道が修養法として紹介・論じられているが、これらも特に要らない
凡そ9割くらいは必要ない情報かな
で、見るべき所は、著者が療法の世界に入るまでの経歴と桧山式療養法のやり方
元々、目・脳・胃腸が悪く、文部省の検定試験の勉強で神経衰弱になり、それに受かって就職するが、やはり神経衰弱で退職することになる
医者に不治を宣告され、温泉、治療器、催眠術を試すが駄目。ただ、そこで民間精神療法を知り、その系統の色んな本を読む。精神療法家にかかってみるが駄目。切羽詰まって、科学的頭脳を捨て、成田不動尊で断食修行する。
連日合掌してお経を唱えていると、手に温湿を感じ、振動を感じるようになった、呼吸切迫し、心拍激しく、体温上昇、汗出て、食べてないのに糞便排泄し、心身が新たに発生する心地になった。細胞の霊動。
不動経の本尊を働かすとは細胞の自然療能を働かすこと
人を迷信と嘲っていた身が、今は進んで迷信の仲間入りをする。これも何かの因縁だろうか
統一法:1細胞霊動法(中体運動、霊動呼吸、鎮心、合掌、摩擦)、2心身自由法(観念呼吸、観念)
中体運動:腰を後下方に落とすと同時に両手で心窩部を押すようにして臍の上部を引き込む。心窩部を柔らかくするため(藤田霊斎の影響?)
霊動呼吸:吸う時に下腹を持ち来す(膨らます?)、吐く時に下腹部を引き込ます
鎮心:心を下腹部に鎮める。脳の神経が喉に集まると想像し、その集めた神経に糸をつけ下腹部中心に持ってくるように想像する。血液下降し、頭脳は冷静になる
合掌:堅実心
・・・と書いてあるが、写真見ると、キリスト教のお祈りのようにガッチリ組んでいる
摩擦:霊動起こしてから、全身摩擦する
観念呼吸:霊動呼吸は生理的だが、これは反対に心理的。胸に吸い込み、口を極めて小さくして吐きながら丹田に精を送る。次に、直に丹田に吸い込むようにし、精を抜かずに少し漏らしながらウンとイキむ
夜は霊動呼吸、朝は観念呼吸がよい
観念:「両手が自然に相合する」「両手が自然に離れる」「丹田が大きくなった」「自分の体が部屋いっぱいに大きくなった」
針を刺して「血が出ない、痛くない」、多忙な時に「20分眠る」、「明日は必ず4時に目覚める」、「酒が嫌いになった」、「喫煙をやめる」
以上が自己療法、他者療法もあるが本では詳しく載ってない
最初に、修養する前と後の著者の写真があるのだが、「人相が変わった」と書いてあるのは本当だね