アラフォー賢者の気ままな引き寄せライフ~第四密度行ったら本気だす~

気ままにスピ雑談、多少は人が見て勉強になりそうなことを書いていく

(本)群衆心理 ギュスターヴ・ル・ボン、その二

・暗示された意見や思想や信仰は大雑把に受け入れられるか、退けられるかであり、また絶対的な真理と見なされるか、絶対的な誤謬と見なされるかである

 個人ならば反駁や論難を受け入れることができる、群衆はそれに耐えられない

横暴で偏狭な性質はあらゆる群衆で共通

群衆は力を尊重して、善良さにはさして心を動かされない

善良さは無気力の一形式と見なされる

群衆の同情は、決して好人物の指導者達には注がれず、専制君主達に注がれた

群衆が最高級の彫像をささげるのは、常にこうした専制君主に対してである

群衆が圧政者を打倒し蹂躙するのも、この圧政者が勢力を失って軽蔑すべき弱者の部類に戻ってしまうから

群衆は弱い権力には常に反抗しようとしているが、強い権力の前では卑屈に屈服する

・群衆はあまりにも無意識に支配されているため極度に保守的

群衆はそのまま放任されていても、やがて自己の混乱状態に飽きて、本能的に隷属状態の方へ赴く

群衆は制度の名目を変更しようと望み、過激な革命さえ行うことがある

しかし、制度の本質は種族伝来の要求であるから、それへ立ち戻らざるを得ない

群衆は根強い保守的本能を備えていて、原始人のように、伝統に対して拝物教的敬意を抱き、現実の生存条件を改めかねない新しい事実を無意識に嫌悪する

・群衆は殺人放火をはじめ、あらゆる犯罪を演じかねないが、また単独の個人がなし得るよりも遥かに高度の、犠牲的な無私無欲な行為をも行いうる

群衆が、自分たちの頭では理解できない戦争に引きずり込まれ、やすやすと自ら死地に赴くのも、確かに一身上の利害関係によるのではない

悪党どもでも、単に集合して群衆になったという事実だけで、往々極めて厳格な道徳法則を身につけることがある

暴動の際に金品を着服しない等

・群衆に暗示される思想がどんなものであろうと、その思想が支配的になりうるには、専ら、極めて単純な形式を帯び、心象の形を借りて群衆の脳裏に現されるのを条件とする

この心象的思想は、論理的な関係によって、少しも相互に結び付けられていない

群衆にあっては、矛盾した思想が相次いで生ずる

その時々の偶然次第で、頭のなかに蓄えられている様々な思想のある一つの影響を受けることになり、従って互いに全くかけちがった行為をも為すにいたる

群衆は批判精神を欠いているから、その矛盾を認めることが出来ない

・思想は極めて単純な形式を帯びた後でなければ、群衆に受け入れられないのであるから、思想が一般に流布するようになるには、しばしば最も徹底的な変貌を受けねばならない

社会的観点からすれば、思想における高下の別というようなものは、実際にはほとんど存在しない

ある思想が群衆の水準に達して群衆を動かすという事実だけで、その高級さ偉大さがほとんど全て失われる

それに、思想における価値の等級のごときは重要ではない、思想から生ずる効果のみを考慮すべきである

中世のキリスト教、全盛期の民主主義思想、今日の社会思想など、さして高級なものとは言えない、哲学的にはかなりみじめな誤謬であると見なすことができる

しかし、その役割は絶大であったし、今後も絶大であろう

思想は、無意識界に浸透して感情にまでならなければ、効能を発揮しない

ある思想が教養ある人々に対しても効果を与えうる場合、それはその正当さが論証されているから、などと信じてはならない

実際、その人は、感情にまでなっている在来の思想に影響されている

思想が群衆の精神に固定されるのに長い期間を要するにしても、そこから脱するにも、やはり相当の時日が必要である

従って、群衆は学者や哲学者より数代遅れている

為政者は、根本思想に含まれる誤謬を知りながらも、自身では真理とは信じなくなっている原則に従って、政治を行わざるを得ない

・相互の間に見かけだけの関係しか有しない、相異なる事象を結合させること、特殊な場合をただちに一般化すること、これが、集団の行う論理の特徴である

群衆を御する術を心得ている弁士が常に群衆に示すのは、この種の連想である

聴衆に甚大な影響を及ぼしたある演説を読んでみて、往々その弱点に脅かされることがある

しかし、それは、その演説が哲学者に読まれるためでなく、集団を勧誘するために作られたものであることを忘れているから

弁士は、群衆を魅惑する心象を喚起する術を心得ている

ソフィストアリストテレスの著書「弁論術」が思い起こされる

ソクラテスは哲学の開祖のようなもんだが、それはそもそもこのような、感情に訴える心象には富んでいるが意味内容空疎な言葉を点検しようという働きかけである

哲学者VS弁士(及び群衆)、というのは昔からある図式である

哲学というのは、一応このような社会的政治的な意義がある

群衆が受け入れる判断は、他から強いられた判断に過ぎず、決して吟味を経たうえでの判断ではない

この点で、群衆の水準を超えない個人も少なくない

ある種の意見が一般化しやすいのは、大部分の人間には、自信の推理に基づく独自の意見を生み出すことができないという事実にとりわけ起因している

このような発想と家族療法、たとえばボーエン理論の「分化の低さ」等に類似性を見出すのは容易いことだ

家族は個人を超えたシステムであるというのと、群衆は個人を超えたシステムであるってのは明らかに共通する方向性なのだが・・・

それにも関わらず、家族療法関係の本で「群集心理」について触れられているのを見たことがない

ま、家族療法は「群集心理」とは全く異なる時代と場所と文脈で見出されていったからだけども

・群衆は、熟考と推理の能力を欠いているために、真実らしくないことを弁別できない

ところで、最も真実らしくない事柄が、一般に、最も人の心を打つことなのだ

群衆の心を最も打つのが、事件の不思議な伝説的な方面であるのは、この理由による

あらゆる時代、国の大政治家たちは、民衆の想像力を、自分らの権力の支柱と見なしたのである

群衆の想像力を動かす事柄は全て、付帯的な説明から離れた切実鮮明な心象、一大勝利とか一大犯罪とか、若干の奇異な事実のみを伴う心象の形で現れる

事柄を大雑把に示すことが肝要であって、決してその由来を示さない

民衆の想像力を動かすのは、事実そのものではなくて、その事実の現れ方なのである