私が読み終わった「隠された心の力〜唯物論という幻想 笠原俊雄」という本を持って行ったということがあって、心の力について。
さ「濁流、色々な形があるという声を聞き過ぎ」
AさんはできるがBさんはできないとか、ある日はできるが別の日はできないとか、等等。
だから、疑いや迷いが出る。
さ「頭の悪い人のほうができる。理屈でやるようなものではない。『そうだ』って感じでやる」
さ「魔性であれば、こうすればこうなるというのは無い。理論なんてない。『そうだ』『そうなんだ』しかない」
さ「疑いも魔性の一つかも」
さ「世界はこのようだ(超常現象が当たり前)という感触に変えないとできない。だから、何もできないか、何でもできるか」
さ「でも、このくらいならできそうという程度は世界がそうさせている」
さ「できそうな程度の奇跡を重ねていく(内に大きい奇跡もできるように)というのもアリ」
さ「例えば、Mさんの腰痛」
結構ひどい腰痛だったらしいんだけど、それが「 腰痛は<怒り>である 」という本を読んだだけで治ったんだそうな。
再発も10年以上、現在まで無いそうな。
さ「でも、それ(腰痛治癒)は意図したのではない、させられたという感触」
さ「世界がどうさせたいかをラクに感じること」
さ「本当はできるからこういう(超能力に関する)理論を追っているんだ、ということを強く思うならできる」
さ「テイスティングしてテストする」
この言い回しの意味については過去のメモ参照。
さ「矢追は十分な説明をしてなくても、自分で勝手に説明を作ってしまえばいい」
矢追純一はそう思えば出来るみたいなことを言ってるんらしいんだけど、これに対しMさんは説明不十分だと思ったそうな。
さ「元々無いんだから、そのようであれと言ったらそのようになるしかない」
時間や空間、物質・・・つまり凡そ形というのは元々無い。
さ「誰がそう言ったのかという犯人探しをするよりも『こうあれ』と言う側になれ」
今のこのクソのような世界は誰が作ったんだと言うよりも、自分で世界を作りなおせ。
さ「『あなたの名前は何ですか?』と聞かれたら『私の名前は神様ですよ』と答えたら?神
名前が無いと知っているならば、何にでもなれる」
あなたの名前は何ですか、というのはよくMさんに言ってるらしい。
名前は無い、神様=大我。
M「神になったら、こうなりたいというのもなくなるのでは?」
さ「でも、そうならない。なぜかは説明できないけど」
さ「なぜか、神と個人に同時に成り得るんじゃないかな、という感触」
さ「なぜか分からないけど、個人の意図とかがありつつ神でいられる」