さ「何かしたいという時に、世界が私を使ってやらせようとしているかという見方をしてみる」
そうだ、世界がやらせようとしているぞって感じがしたら、成功率高い。
さ「(いつも自由意志はないと言ってるが、)役目を喜びと捉えるかどうかの自由意志はある」
役目ってのは世界にやらされていること。
さ「私達はいつもテキトー」
さ「それ(テキトーにさやかがした話)が自分の知ってる話かどうか見ればいい」
読者の人は実感できないだろうけど、本当にテキトーなんだよ。
ころころ話が変わるし、同じテーマでも前した話と結論が違うとか。
さ「私達は何に対しても賛成」
特にMさんの場合がそう。
Mさんが巷の何かのスピリチュアルの一説を本当だと思ったら、さ「そうよ、その通り。頑張れ、頑張れ」と言っておいて、しばらくやってみてやっぱこの説駄目じゃんと思ったら、さ「そうよ、その通り。よく気づいたわね」とか言う。
さ「論理的一貫性よりも幸せかどうかに私達はフォーカスする」
さ「過去は気にしない。過去は無いんだから、前にこう言ってたじゃないか(S)とか言うな。今言ったことが真実。」
おまえ、これ言ったらなんでもありじゃねえか・・・。
さ「ヒーリング、出来ると思ったら出来る」
さ「自分の(知ってる)話かどうかに集中してればいい」
さ「病院に行くのがバカという感触があるか?」
知ってる/知らない話の最たるものが自分の健康問題ということなんだろうね。
前に、さ「お金に困るという話を知らなかったのに、世間や周りの人々の見聞きしてたからお金に困るようになっちゃったのよ」という議論があって、それを踏まえて・・・
S「以前は知ってる話だったけど、後で知らない話になるとか、そういうケースはありうるの?」
さ「知ってる話は本性としては変化しない」
そもそも自分の知ってる/知らない話というのは、私という感覚が出来上がった時に、すでに総括的に出来上がっている。
だから、ある意味、時間を超えているんだね。
一般的常識的に考えると、5歳くらいで物心ついて、私という感覚を持ち始めて、そこから色んな事を見聞し、こんなことは簡単そうだ、あんなことは難しそうだという感触を得ていくということになるが、そういうことではないと。
さ「(このような、知ってる話が知らない話に変化したかのような状態は)感触としてはあるのに、アタマが認めていない(という状態)」
さ「ボケーっとしてる時の感触が知ってる話」