さ「恐怖というものが刺さって、取りようがない」
という話をいきなり始めるわけだが、オチは下記。
さ「世策(さやか用語で、世界の計画の意味)をどのように行ったか?」
さ「恐怖をもたらそうとした、恐怖を植えつけた、恐怖を持っていて欲しい」
世界の計画として、恐怖を我々に植え付けようとしたという。
さ「恐怖は存在の声の確認の道具」
恐怖は、私という感性の確認の道具。
さ「恐怖は私・あなた(他者)の世界観、油断すると私がいなくなる」
世界が全て私であるならば私という感性がないというのはそうだろうね。
ゆえに、他者、私でないものが世界になくちゃいけない。
でもそうすると、私でないものが私を破壊するかも知れないということで、恐怖が出てくる。
さ「私達はいつも恐怖を持っていて欲しい」
さ「恐怖は必要なれど、その上で恐怖を取り除いて幸せになる。そういう季節がやってきた。そろそろ恐怖の必要がなくなってきた」
さ「(恐怖が刺さったという話をしたのは)刺さったという確認をした」
つまり、恐怖が刺さったという話は、さやかがそういう話をしたからと言って、自動的に私の知ってる話ということにはならない。
この時は、普通にへーって感じでさやかの話を聞いてたので、「そうですか、恐怖が刺さったという話をあなたは知ってるんですね」という流れになっちゃった。
だから、初めに「何いってんのコイツ?」という反応を私がしていれば、これは私の知らない話ということになったのだろう。
そういうわけで、さやかはテキトーに話をして、それが私の感性に照らして知ってる話かどうかの確認になるというわけ。
さやかはよく「テストですよ」とか、「テスティングですよ」とか、「テイスティングですよ」とか言う。
テスティングとテイスティングでダジャレなわけだが、テスティングtest+ingは試す・検査、テイスティングtaste+ingは味わう、ということだね。
例えば、なんかのスピ話を聞いた時に、それを味わう、つまりどのような感じ、感触がするかを見ることで、それがあなたの知ってる話かどうかを検査できる、ということ。
さ「あなたがいないんだから刺さりようがない」
こうやって、今までしてきた話のちゃぶ台返しをするってのがいかにもさやか的。