クンダリニー:その古典と臨床、リー・サネラ
瞑想中はストレス・ポイントが痛むものだが、クンダリニーはそこにくると「自由意志で」行動し始める
こういうのは瞑想やってる人には誰でもあると思う
背筋や首筋や肩が痛くなって、ほぼ自動的にストレッチ的な運動が出る
この著者とイツァーク・ベントフのクンダリニーモデルは両足、背中、頭へと上昇し、顔面、喉、腹部へ下がって止まる
ヨーガの記述では、頭へ上昇して、頭頂から上へ抜ける
この著者の臨床とヨーガの古典的な記述では色々差があるという
いくつかのケースでは、クンダリニー体験中で、社会的プレッシャーや以前の条件付けからの抵抗により、分裂病的症状が起こった
そのような人が精神病院に入れられたが、誰が狂っていて、誰が「飛んでいる」だけか当てられる自信があるという
クンダリニー覚醒した人は、他人のクンダリニー状態が直感的に分かるのだろう
クンダリニーと精神病の違い、自分に客観的で何が起こっているか伝えることに関心を示す、熱感覚、ぴくぴく・ぴりぴりという感覚等
ある人を悩ませていた自然発生的トランスは、トランス状態に意識的に入るように本人に勧めた所止んだ
抵抗するのをやめた途端、トランス自体が彼をコントロールするのをやめた
苦痛はプロセスから生じたのではなく、抵抗から生じた
通常放っておけば自然なペースを見つけるが、あまりに激しい場合は、重い食事、瞑想中止、体を動かす等した方がいい
超感覚的知覚の覚醒がもたらすもの:個人的体験、アン・アームストロング
この人はサイキックカウンセラーで、そうなるまでの体験談
色々と健康が優れず、催眠と出会い、過去生を思い出して回復、催眠を続けていく内にサイキック能力に目覚める
テレパシー通信が入って来て、呼吸法やアーサナ、食べ物、睡眠、思考と感情、瞑想テクニックにつて教わる
チャネリングで人に話す、自分の真理問題をクリアするほど講義内容の質が良くなる
変容の危機としてのUFO遭遇体験、キース・トンプソン
UFO体験をイニシエーション儀式と重ねて理解
ジョゼフ・キャンベルの言うような神話における英雄の冒険への召命とUFOで個人が未知の領域に招かれることの相似
アブダクティが直面する実存的危機、世間的リアリティから外れた経験を報告して世間から無視される
日常のリアリティから離れて超自然の驚異とコンタクトし再び日常のリアリティに戻る、二つの世界のマスター
霊的修行における障害と変転、ジャック・コーンフィールド
この人は西洋人で、アジアに行って上座部仏教学ぶ、米で心理学の博士もとった
「今ここ」に注意を向ける、体のブロックや拘束されたエネルギーの深いパターンが表面化、過去の状況が蘇る
スピリチュアルな修行をしてる人には騙されやすく、弱く、優柔不断で「スピリチュアルな無能力者」になってしまうこともある、「主のみ心に任せていればいいんだ」、仕事・家庭・人間関係で充実した生活が送れない
本当に世を捨てて僧院に住んだりしたいかを考えてみなければならない、そうでないなら世の中でスピリチュアルに生きるという難しい課題に折り合いを付けるしかない
「快を追い求めようとも不快なものを拒もうともしない状態」、これは内的探求に必要なバランスの取れた気付きの状態ではあるが、仕事の進路の決定や結婚の選択・家事や車の手入れに必要な種類の注意ではない
修行や瞑想を人生の逃避に使う人も多い
十分に自由の感覚を得たいなら、逃げたり隠れたりしてきた方法を意識に上らせ直面しないといけない
そうは言うけどねえ、基本的に宗教なんぞ現実逃避のためにあるんだよ
特に仏教みたいなのはそう、一切皆苦なんだから
そうじゃなければ、なんで宗教なんぞに興味を持つのだろうか?
修行には二つのレベルがある、1心を落ち着かせる、ヨガ、体を開く、よりシンプルで道徳的な生活をする、2人間に可能な限りもっとも深い自由を得る
一つ目が健全だと思うね
2を目指すと、スピリチュアルな体験をし始める、歓喜、クリヤ、変性知覚、感情の解放、感覚が格段に増す
集中、光、歓喜、喜び、ヴィジョンといったものは洞察の堕落と呼ばれる、真の自由ではないから
その真の自由とやらは何が楽しく面白いのか、って思っちゃうけどね
こういう修行をしていると、クンダリニーの目覚め、チャクラ開く
クンダリニー精神病というのがある、グラウンディングさせる、鍼は激しいクンダリニーによく効く、重いもの食べる
以前精神病で入院したことある人は瞑想修行で精神病体験を繰り返してしまう傾向
白隠禅師「夜船閑話」
もっとも美しく深い静寂の境地「空は自ずから生じ、実体がない。「われ」でも「わがもの」でもない。分離の感覚も自己の感覚もない」
けれども人がこの途方もない悟りの旅を終えてなお(俗世に)降りてくるのは避けがたい
言っちゃ何だけど、「悟りたい人は早く◯ね」で済む話なんじゃないの?