アラフォー賢者の気ままな引き寄せライフ~第四密度行ったら本気だす~

気ままにスピ雑談、多少は人が見て勉強になりそうなことを書いていく

(本)スピリチュアル・エマージェンシー スタニスラフ・グロフ、その三

宗教及び精神病との関連における超越体験、R.D.レイン

R.D.レイン、「反精神医学」の旗手とされる、「健常者が本当は正気ではなく、精神病者が傍目に映るほど狂ってない」という発想

簡単に言えば、「社会は自身相当に狂っているのに、それを反省せず、その自身の基準に合わない人に精神病というレッテルを張って切り捨てている」というような精神医学の在り方及び社会を批判した人って感じかな

私は結構R.D.レインの本を読んだ

処女作の「引き裂かれた自己」とか秀逸だと思う

あとは分裂病の家族研究の先駆者だったりするね

つまり、分裂病の患者の親って一応社会的に機能してるけど、よくよく観察してみると何かおかしいぞって話

この場合、「分裂病を発症した子供はオカシイが、親はマトモ」という構図になって、子供を投薬で押さえつける、ということになる

しかし、親がおかしくて、そいつに幼児の頃から締め付けられてきたから子供はおかしくなったのかもしれない

そういう疑問が出されないのは、一種の権力ヒエラルキーの問題かもしれない

例えば、ナチスで「ヒトラーはおかしい」と言った奴は精神病だと見なされる、みたいな感じ

このような家族の構図を社会に拡大したら、反精神医学になるだろう

ヤスパース精神病理学研究」より患者の体験談(元型との邂逅のような感じ)を引用して、ヤスパースでさえこのような体験を病的と言い患者の解釈を軽んじる、しかしそれなりの正当性があるように思われる

私は狂気を体験して来た人から、まことに天の恵みであったと聞かされてきた

正常である私たちの方が正気を失っていると私が言った所で、意味のない逆説を繰りだそうと言うのではない

私達の気づいていない心は私達のことを気づいている

今日における正気は対人関係・人間集団の領域である外的世界に順応する能力に大いに依っている、ゆえにどのように個人が内的世界に直接気付こうとゆゆしきリスクを孕んでいる

現状では、世俗の心理療法家の役割が、往々にして半盲の人を導く盲人といったものになっている

 

精神の出現と刷新、ジョン・ウィアー・ペリー

ジョン・ウィアー・ペリーはユング派の人

死と世界破滅の感情的体験、これらの元型的イメージはエネルギーを古い構造から未来に向けた新しい構造へ解放・変容する機能を果たす

セルフの本質は誕生・死・復活という周期的循環を経る

自我は、中心であるセルフのイメージの消失に応じて、二次的に変化するに過ぎない

刷新プロセスは混乱させるためそれなりの状況が必要とされる、儀式の聖と俗、聖なる囲い、聖域で起こったことには別の規則(古代にはこういう状態になった人の取り扱い方が分かっていた)

 

狂気が祝福となるとき:シャーマニズムのメッセージ、ホルガー・カルヴァイト

精神的肉体的苦痛は意識を変化させる手段として、変容と自己治癒を起こすメカニズムとして認められてない

病と死を主に邪悪で敵対的なものとみなすのでなく、肯定的な内的ダイナミズムを認める過去の諸文化・伝統社会の知識を再評価

病気を切っ掛けにシャーマンとなった数多くの例

少女なら10〜12歳の間、若い男なら20〜25歳の間に病気になる、頭痛、吐き気、食欲不振

未来のシャーマンは、支離滅裂な言葉を捲し立てたり、奇妙な食習慣、絶えず歌ったり

霊達に責められる、霊はシャーマンになるよう求める、霊の要求に応じて初めて健康が回復する

臨死体験でシャーマンになる

「呼ばれる」というサイキックな体験は、通常の治療法では扱えない病気から始まる

恋人を失ったとか不幸な結婚が呼ばれる切っ掛けになった例、心理学者なら現実逃避願望と言うだろう、しかしそれらが変性意識状態に入るための肥沃な土壌をもたらす精神的外傷の体験であることを見過ごしてはならない

ポジティブだなあ

「呼ぶ声」を拒否することは不必要な苦しみを招くもととなる

病気の痛みと苦しみを体験し克服したものが一番よく病気を診断し効果的に治療できるという前提

シャーマン自身だけでなく、家族全員が不幸に見舞われることがよくある

韓国人は家族の一員がシャーマンに選ばれて他の誰かが死ななければならないのをインダリと呼ぶ、病気の兆候が始まってすぐに必要なイニシエーション儀式をすればインダリを避けることもできるが、ほとんどは家族はシャーマンが身内にいるのを嫌がるのでインダリはかなり頻繁に起きる

家族療法的現象のような感じ

病気と体外離脱の組み合わせはかなり多い