遠ざけられた自然
聖書によれば、人間と自然との敵対関係を定めたのは神自身だという、創世記3.17〜18
かつて人々は自然と親しむことは神を敬う証と考えていた
教会はギリシャ神話の牧神パンを悪魔教のモデルに選んだ、パンは豊穣・多産の神、妖精やエルフや神霊を導く
自然界に神はいないという考えは動物の扱い方に影響を与えた、1991年ルイス・レーゲンシュタイン「地に満ちよ」によれば「おびただしい数の動物が裁判にかけられ、拷問され、処刑された。動物は悪魔の手先になりやすいから、というのが理由だった」
1484年教皇インノケンティウス八世、魔女と一緒に飼い猫も火刑に処すようにという公式命令
熱狂的なキリスト教徒は猫・オオカミ・ヘビ・キツネ・ヒヨコ・ニワトリを殺しまくった、天敵がいなくなりネズミが大量発生しペストが大流行、さらに教会公認の医者は猫と犬がペストを媒介すると思い込み駆除を命じた
教会は何世紀にもわたって自然崇拝を非難し続けた
教会は異教の祭りも取り込んだ、民衆の支持を得たい、異教の祭りの活気を利用したい
冬至のエジプトやシリアの習慣、子宮の形をした奥の院にこもり真夜中12時に抜け出し「おとめが出産なされたぞ、日が長くなる」と叫ぶ
冬至:クリスマス・公現祭、冬:聖母マリア清めの祝日、春分:イースター、春:ペンテコステ、夏至:洗礼者ヨハネの祭日、夏:聖母マリア被昇天、秋分:ミカエル祭・聖母マリア誕生祭、秋:万霊祭・万霊節
クリスマスと公現祭も冬至の祭、内容が違うのでなく歴が違う、エジプト歴とユリウス歴、キリスト教の現在の祭りでぴたりと冬至夏至秋分春分・季節の盛りに当てはまらないのはそのせい
冬の盛りの祝日、ブリジットやヴィーナスなどの女神を称える日
春分は太陽の復活を祝う日、バビロニア人の神アドニス、ギリシャ人の神アポロ、ローマ人の神アッティス、篝火、野うさぎや卵の豊穣のシンボル
月の満ち欠けを祝う祭りがあって女神崇拝と結びついていた、これもマリアの祝日にすり替えられた
祭りの浮かれた雰囲気は禁欲と厳粛を説く正統派に矛盾する、喜びを表したり自然との結びつきを示すものを異教の習慣とした、踊りを毛嫌いした
ルバート・シェルドレイク「自然の再生」によると、(フランシス・ベーコン曰く)自然は手付かずで残すより人為的に苦痛を与えた方が本来の性質がはっきりと現れる、自然は自由を失い奴隷となり束縛を受けなければならない
アセンデッドマスターたるフランシス・ベーコン様はこんな感じだそうだよ
こいつを奉じながら、ガイアに敬意を持つべきだの言うのは矛盾だね
自然は征服すべきものであって、楽しんだり、ましてや崇めたりするものでなかった
宗教改革以前は時間を循環するものと考える人がほとんどだった
時間は循環的だ、というのは現代のチャネリングでもたまに出てくる
宗教改革者たちは時間を直線的に捉える聖アウグスティヌス説を支持した
吉日凶日という考えも馬鹿にされた
死は自然なものでなく神が下した罰、恐れを植え付ける道具として利用
古代の人々は死んだら黄泉の国へ行って休んで若返ると思っていた、キリスト教は地獄
中世は煉獄を考えだし和らげたが、宗教改革で否定
死の美化、伝導の書7.1「死の日は生まれる日にまさる」、教父ヨハンネス・クリュソストモス「(キリスト教徒の)一番の特徴は死を求め死を愛することである」
地上に霊的なものなど無いと信じた教徒は世界の終末を心から望むようになった
神なき世界、紀元1600年〜
地上に神は存在しないという正統派の教えは、近代思想の基礎を築いた
物質界は、完全に合理的で説明可能な法則に基き、無生命の構成要素が機械的に動いてる世界
このような唯物教がキリスト教の延長として生まれたというのは面白いじゃないか
ガリレオ・ガリレイ、ルネ・デカルト、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートン、フランシス・ベーコン、ベネディクトゥス・スピノザ、ジョン・ロック
天と地が分かれているように、精神と物質が分かれてる、ニュートンの法則
現実は大きな意識から生み出されたのではない、デカルト「我思うゆえに我あり」
統治と闘争の必要性、ヒエラルキー、ダーウィン進化論、ダーウィン自身は正統派の教えに反すると考えてなかった
神の奇跡は否定するくせに、天罰に対する恐れは利用する
人間に自由意志がないという思想
しかし、近年になって、量子論、ガイア説、要素を分析するだけでなく全体的なつながりを見る傾向
ここらへん、ニューエイジに繋がっていくような感じ
自然治癒を引き出すという発想がない、軽い病気に抗生物質
企業は宗教的なヒエラルキーを真似た形態
民主主義は正統派の教えに反するもの
・キリスト教のダークサイドを無視すると、人間は本質的に邪悪で野蛮という考えを永続させる
新石器時代には、ヒエラルキーなくても秩序を守れる平和な文化文明が存在していた
正統派はこう考える、「統一」を導くのは「同じであること」であって、「異なるもの」が協力した所で何にもならない
バシャールのグレイ批判のようではないか
キリスト教の全てを否定する必要はない
正統派の暴虐な考えや振る舞いに昂然と立ち向かったキリスト教徒もいる
愛と慈悲を重んじ、個人の権限や調和をめざしてきた教徒は星の数ほどいる
ここらへんはちゃんとフォロー入れないとね
キリスト教のダークサイドは人間性が生み出したのではなく、極めて特殊なイデオロギーや信念が生み出した結果
これがちょっと甘い考え方だ、というのが今や分かる
マニ教との論争とかにあるように、この著者自身がしばしば言及していることだが、支配の拡大に差し障りがあるならば往々にしてイデオロギーを捻じ曲げるとか妥協するとかいうことを平気でやっているんだよね
だから、イデオロギーのせいではない
結局の所、キリスト教のダークサイドというのはサイコパス政体の発展と同じだ、と私には思われる
スキゾイドサイコパスが非人間的なイデオロギーを撒き散らし、それに乗っかって単に権力が欲しいだけの本質的サイコパスが集って来てどうのこうの・・・、というダイナミズムがあるのであろう
詳しくは、ロバチェフスキー「政治悪学」(https://mixi.jp/view_bbs.pl?id=88516939&comm_id=2590126)を読まれたし!
だから、キリスト教のダークサイドは正常人の人間性が生み出したのではなく、イデオロギーや信念が生み出したのでもなく、サイコパスの人間性が生み出した、と今や評すべきだ