◯この人はフロイトの流れにある心理学者である
(多分。というのは著者が人類学で学位を取り、人類学の教授なので。でも、人類学っぽいことは本に出てこない)
だが、詳しくは分からんが、現代のフロイト派というのは、幼児性欲理論とか、そういう普通に考えて普通にアホくさく思われる説から、もっと人間的に普遍的で価値のあるものを取り出そう、再解釈をしよう、としている動きにあるみたいだ
彼はそういう立場にいて、他のそういう立場の心理学者の説を引用しながら論を進めていく
◯この著者はオットー・ランクという、イマイチ知られていないフロイトの弟子(ユングのように途中で師と決別する)を非常に高く評価する
彼の思想を取り入れることで、フロイトを超えてゆかんとしている
で、このオットー・ランクという人は超優れたアイデアを色々出しているのだが、それらを統一して一つの体系にはしてくれなかった
それらのアイデアを断片的に書き散らす、という所で終わった人らしい
で、著者は、オットー・ランクの発想の根底にあるもの、を実存主義哲学、キルケゴールの思想を駆使して、解き明かしてもいる
つまり、彼の断片的なアイデアを実存主義によって再解釈し、再構成することによって、一つの体系とは言わないまでも、一つの流れ・筋として理解できるようなものとしているんだな
この著者は中々巧みで、本を読んでいると、実存主義哲学をポスト・フロイト的な精神分析思想によって再解釈したり、新たな演繹発展を導いてる、ようにも見える
まあ、そこは、それくらいに密接に関わっている、ということだな
◯このような動きの中では、フロイトを一方で誉めつつ、もう一方で貶すことになる
この本の中では、フロイトがどのような人間であったか、彼の性格、も検討される
普通の人と同じくらい(んー、というかやや強いのでは?)性格的に弱点があり、父権的、他者に操作的で、かなりの不安症であった、ということを書いている
ここで、この人はフロイトは母に恵まれてどうのこうの、とか書いてあるが、「自己愛家族」とか読んだ私にとってはそうは思われない
アリス・ミラーがドストエフスキー「罪と罰」に出てくるラスコーリニコフの母親で分析した所が当てはまるタイプであったのではないか、と思うけど
◯フロイトは人間の被造物性というのを徹底して認識していた、という
それは、彼が何でもかんでも性欲で説明しようとしたことから導かれる
まず肉体ありき、それによって精神的な全てが規定される、という発想
そこから、人間の死というのを徹底して認識していた、という
だから、フロイトはなにか神秘的なもの、当時ちょこっと芽を出して来た超心理学みたいなものからの砦として精神分析はあるのだ、とか言ったそうだ
ここで、「フロイトがなぜここまで有名になれたのか?」ということが頭をよぎる
それはフロイトが超常現象・超能力というものから離れた思想を展開したために、世間の「抵抗」を刺激しなかったからである、と私は考える
フロイト以前には、精神的・心理的な治療として、メスメリズムから続く催眠の流れがあったのだ
その流れを断ち切ったのがフロイトである
ここをスピリチュアル大好きっ子は頭に入れておくべきだ
◯著者によれば、フロイトがこのような神秘的なものを無視するのは、彼の死を直視する態度に由来するという
まあ、確かにね
超能力というのは肉体を超えた能力であるし、人間はそのような肉体を超えた存在である、という考えは死の否認なのかもしれない
だが、私がこの著者が見落としていると思う点は、世間が死を否認し、なおかつ超常現象・超能力をも否認する、という訳の分からんことをしているということだ
すると、世間は「人間は単なる肉体であり、しかも、死は存在しない」と考えたがっている、ということになる
こんな矛盾命題に固執するってのは狂気以外の何物でもないが、実際世の中そんなもん、と思われる
◯そもそも根本的に人間とは実存的な不安に晒されて絶望しているのが本来である
そのような危険に対して、こどもは色々な心理的な防衛をする
その防衛として、人格が生まれる
人格とは、そもそも現実否認のためのもの
私が読んでみて、キルケゴール理解として、そんなに大きく間違っているという印象もなかった
キルケゴール読むのはたるくて嫌だが、彼の思想を知りたい、という人が参考にするのもいいだろう