さ
さあ、良い質問ですね
どうすれば面白いと思えるか、ということでいいですか
何もかもつまらないという感性があれば、そこから始めるというのはどうでしょうか
こんなに糞つまんないことがあるか、という感性をまず持つんです
そして、その時あなた方がどう感じるかなんですね
糞つまんないことってちょっと興味ありそうじゃない、という感性が生まれればそれがおもしろいことになるんですね
前にも言ったかも知れませんが、そのことをやろうやろうとしてもどうしてもできないということがあるんですね
「もういいや、もう無理、全然無理、絶対に出来ません」と言った時にそれがそうでなくなる、ということがどういうものかを実験するいい機会だと私は思います
その意味において、「何もかも糞つまらない、もう生きるのがどうしようもなく嫌だ、何もかもやめたい」、そんな感性で見てみたら良いんじゃないですか
「もう駄目だ、もう私にはおもしろいことなんて一つもないんだ」、ということを超、感触として持つんです
その時に「えっ?そんなにつまんない?」という感触があるはずなんですね
どうしてそうなるのか、ということを私達から言うことは出来ないです
必ずそうなる、とは言いませんけれども、なるんじゃないの?
どうですか、あなたはそんな感じします?
S
ん?
さ
何もかも駄目だ、と言ったならば、それがそうでもないんじゃないの、と思える感触があるか、というのを聞いたんです
S
まあ、思えるんじゃない
さ
であるならば、それは一つの方法としてありますね
あなた方がワクワクしなさいと言われても出来ないだろ、という話なんですよ
それを無理にやろうとすればするほどできない、というのが言ってみたい話ですね
ですので、「ワクワクなんかできない、絶対にできっこない、完璧に100%無理だ」と言うんですね
そしたら、「そんなことはないよ」という声が必ず聞こえるんです
どうしてでしょう?
不思議ではないですか、こんなに断言できるのは
今「あなた方」という言い方をしてるのは、聞いている二人(MとS)のことを言ってるんじゃないんです
あなた一人に対してあなた方と言ってるんですよ
つまり、一人の人にたくさんの人がいるわけです
S
あー
さ
その人の中のある一人が「こんなことは絶対に無理だ」と言うんです、しかし別の人で「いやいや違うぞ」という人が必ずその中に入っているんです
だからこそ、私達はそれを活性化させるんです
それでちょっと、一人の人に論陣を張ってもらうんです、すると「そうじゃねえだろ」という人が出てきませんか
世の中というのはそういう風になっていませんか
まあなんとなくと言ってる場合には、まあなんとなくという人がいる
極端なことを言うと、「いやいや待ってくれ」という人がいるんじゃないですか
そういうことなんです
つまり、あなた方と言ってるのは、一人のあなたの中の複数のあなた方としての、あなた方(MとS)に対して、今はそういう使い方をしました
このような感性からすれば、あなた方と言った時にもっと面白味が出るわけです
私はいつもこれをこうとしか見ていない、というのは、私達の言い方からすれば、ちょっと嘘なんです
それは、あなたという一人の中にいるたくさんのあなた方の一人が「こんなもんだろう」という言い方をするんです、でも他の沢山の人がいるんですね、その人の意見を聞きましたかと言うんです、「いやいや俺はそんなではないぞ」という人もいるはずではないですか
そんな風に自分を考えてみたことはないですか
このような感性で日常的に自分を見る、自覚する癖をつけるならば、必ずあなた方が一人の人間として意志を持ち得ていない、ということが明確に分かるんです
そういう作業をあなたはしたことありますか?
S
ないなあ
さ
それは必ずやって欲しいですね
そうすると、彼(グルジェフ)が同一化出来るかどうかと言った話を、あなた方が本当の話として聞けるんじゃないですか
あなた方は同一化できていない、自分が何を考えてるか、何者かがまるで分かっていない、そういうことなんです
「いやこういう気分の時もあるよね、そういう気分の時もあるよね」という言い方を「こういう人もいる、そういう人もいる」という言い方に変えてみたら、どんな感じがするか
そして、「こういう人が、アレっ数えてみたら何百人もいた」ということにもなるんです
そして、本当のあなたは誰ですかと聞かれた時にどう答えますか?
これが私なんですと言える人が、その中に一人特定できるでしょうか
これが一人のあなたなんです
この観点からしても、あなたが存在できない、ということが分かるんじゃないか
このことはどうでしょう
あなたは誰ですかと聞かれた時に、何百人いる中のこの一人としてしか生きていませんよ、などと言う人は誰もいないんですね
だから、「私と言われても、どの私のことを聞いているのか、質問をはっきりさせてください」という言い方がむしろ正しいんじゃないですか
そして、それを本当に認めることが出来た時に「私はいません」という答えになるんじゃないかと私達は思いますね
そもそも私達という言い方の中に、私の中の私達というのが本来の使い方なんですね
ですが、私達というのは、複数の人間の意味として一般的に使っているけれども、一人の中の私達というのを意識してみる、これは非常に面白いですよ
そこに本当のあなたがいられるか、本当の私というのを見つけられるか
その時にあなたは何も分からない、つまりですね、私はいないという結論にしかならない
こんな話をこんな観点から、いないという話をされるとは思ってなかったかも知れませんけれども、本来はそういうことなんです
けれども、あなた達は私という感性をどうやって身につけたのか、ということを私達はやはり聞きたいですね
こんなにもあなたの中にたくさんの人がいる中の、どうやってあなたというものを確定させたんですかと、私は言うんです
それはあなたが名前を持っているからではないか、というのが一つの言い方です
何何さんと言われれば、あなたは「どの何何さんか分からないけれども、とりあえずこの体のことを言ってるのは確か」だから、ハイと答えるんですね
しかし、ハイと言った人はその何百人のうちのどなたでしたか、という聞かれ方をしたことはないはずなんですね
ですので、あなたはあたかも私一人だという感性を持ったんです
こういう理解はどうでしょう?
S
うーん・・・なるほど
さ
そういう観点を持つことを結構ちゃんとやるならば、「あーなるほどね」という結論を見る、ことが私達は見えたんです