アラフォー賢者の気ままな引き寄せライフ~第四密度行ったら本気だす~

気ままにスピ雑談、多少は人が見て勉強になりそうなことを書いていく

LIFE IS RELIGIONその四

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予期する VS 予期しない

カシオペア文書において「予期」は、自分の道を歩むこと、すなわち、広く現実と相互作用することとの関連で論じられている。
この議論には2つの側面がある:
1つは、備えをして問題を回避できるよう、人は常に攻撃を予期すべきであるというものであり;
2つ目は、執着や予期は「創造性の流れ」を制限するので、自らの創造的努力による想像結果に固執するべきではない、というものである。

これは「自分の現実を創造する(YCYOR)」というテーマに関するカシオペアン流の議論と言える。

2つ目は、ある程度踏み込んだ内容のYCYOR解説では、かなり言われることである

一方で、1つ目はまず言われないね

「自分の現実を創造する」のが自分であるならば、悪宇宙人の攻撃なんてのはないはずだからね

これはカシオペアンに特徴的なものだろう

意図は現実化を促すが、特定の現実化を予期することは形而上的に意図を無効化する。
予期とは、自分の決意が請け合われるよう期待し、宇宙が自分の意志に従うよう期待することであり、自己への奉仕(STS)の原理の1側面に帰着する。意図は非個人的なもので、他者へ奉仕(STO)的意味合いを帯び、概して創造的たり得る。

そうそう、その通り!
他方、予期の方は、自己への奉仕(STS)の領域で用いられる。とはいえ、他者への奉仕(STO)候補者たちも専らこれを、起こり得る予測可能な困難を予測し、それを阻止するために用いる。
これは単純に身体的・精神的な準備という形をとる。

別の言い方をすれば、「もっとお金を持たねばならない」と思えば、「もっとお金を持つ」という考えが未来に投影され、自分は「今はお金を十分持っていない」と断言することになる。
逆に、強盗に遭うかもしれないと思い、暗くなってから裏道を避ける人は、「自分は将来強盗に遭うかもしれないが、今は安全だ」と断定し、この考えを身体で表現するために、強盗が多い場所を避けさえするだろう。
もし心のどこかが、形而上、出来事を引き寄せることによって現実に影響を与えうるとしたら、それは意識的に願う部分ではない。
この部分が現実に影響を及ぼすとすれば、それはむしろ、適切な知覚を選択して、さもなければ得られるはずの多くの情報を遮断してしまうことによってである。
これもまた生存を指向する役割を果たすものではあるが、自分の仮定や予期に合致するものしか受け入れない人には過剰に発現する。

また、何かを無視することで、その何かを体験的に学ぶことができる、という考え方もある。
危険が迫っているのに警告を無視する場合は、一般的にそうである。
「何でも与えてくれる宇宙」は、これに応えて、その危険を体験させてくれるのである。

予期の使い道は防衛的なものであり、起こりうる危険を知ることに基づくと言っていいだろう。
また、「創造原理」の受け入れとは殆ど関係のないプロジェクトの実行について、人々が緻密な計画を立てるときにも、予期はコントロール的に利用可能である。
このような活動は、外部からの要求を満たすため、あるいは自分がコントロールされていることを確認するために行われることがほとんどである。

内心の規律を身に着けることはやや別問題である。
規律とはコースを維持し、一貫性を保つことであって、ただ期待することによって外部の特定の効果を「予期する」ことではない。

他者への奉仕(STO)モードにおける最大の創造的貢献は、結果や効果を予期しないまま、自分の根本的な性質や才能を表現することによって実現可能である。

それがどんな才能なのか正しく知り、また、その才能をどこで使うのが適切なのかを知るには、多くのワークが必要となろう。
客観的な現実に即した実践も含まれるため、それは単純な自己表現のプロセスではない。
現実を受け入れる姿勢を持つことが、建設的で制限のない反応を可能にするのである。
この客観的で、仮定しない状態でなければ、たとえ無意識的にではあれ、やはり自分の解釈を現実に押し付けてしまうことになるのだ。

自己の欲望にとらわれず、宇宙の原理のため、そして、偏見のない現実の見方に基づいてのみ行動するというのは、滅多にできることではない。
しかし、意図と正確な知覚を結び付ければ、まったく予期しない好機やシンクロニシティに至り得るのだ。

あまりに多くの制限を設けると、せっかくの好機を逃すことになりかねない。
それは客観的に見るとは言えず、執念の現れである。

というか、他者に奉仕したい貢献したいというのが、すでに執念であり、自己奉仕が入っちゃってるんだよねえ

なので、ある意味では「他人とかどうでもいい」という態度が入っていなければならない・・・

この考え方は、「知識は身を守る」という格言と結びついている。
リスクを知ることで、リスクへの備えが可能になり、また、サイキックな守りも得られよう。

カシオペアンではこうなるんだろう

人類同盟やレオ・ネットワークでは、ハイヤーセルフとの繋がりが知識であり守りである、みたいなニュアンスがかなり強いのだが
特定の結果への執着は知識ではなく、自分の主観を世界に押し付けるものなので、守りを得るどころか、まったく逆の結果を招きかねない。
このように、柔軟性と客観的な知覚が重要なのである。

こうは言った所で、人間の能力には限界があるので、客観的な知覚の達成にも限界があるんだよねえ

それよりも、主観的な知覚に捕らわれないこと、あらゆる可能性にオープンでいることを強調したほうがいいかもね

補:引き寄せの法則と気づきの法則 の検索結果

上に書いてあることのモントーク流の解説かな

カシオペアンチームから追放され、カシオペアンのセッションで「エージェントだ」とまで言われたモントークをここで持ってくるのはそぐわないのかもしれないが、まあ、参考になるかもよ

 

ローラ『ザウェイブ』23章からの抜粋

クレチアン・ド・トロワ作『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』のプロローグでは、地上にかつて楽園があったと語られている。

リアリティ/現実には2つの面がある:内的なものと外的なものだ。出来事が起こるのは、物質世界の現実の場所においてのみではない;それらはまた、存在のもう1つのレベル、元型の領域にも同時に存在しているのだ。日常世界と双子のあちらの世界とは、互いに平行している双子の宇宙である。

この楽園には、聖なる洞窟や井戸があり、泉の傍には乙女達が棲んでいた。この時点では、2つの世界は出会い、重なり合い、架橋されていたと信じられている;人々はあちらの世界へと渡って行くことができたのだ。これは女性的な潜在力、すなわち脳の右半球の機能を象徴している。

聖なる井戸の乙女達は放浪者や旅人に金のボウルやカップで水をふるまっていた。これは右半球の創造的潜在力を象徴するものであり、この創造性の井戸を通じて、人は文字通り現実や必要なもの全てを ― 十分なだけ ― 創造できた。

乙女達が旅人に水を供していた頃、この領域は平和で豊かな場所であったのだが、ある日のこと、邪悪な王アマンゴンが乙女の1人を犯し、彼女を捕えて聖なるボウルを盗んだのだった。アマンゴンの家来達も王に倣って、井戸の乙女達を見付けては犯し始めた。すぐに井戸で水を供してくれる乙女達は居なくなった。この時以来、地球は不毛の土地となった。井戸の水は涸れ、大地は不毛となったのである。不毛の荒地はあちらの世界との接触を失った状態を示すものだ。

[…]

泉と井戸は、生命を与える豊饒さの最も強力な表現の象徴である。聖杯を見付けるというのは、この創造力を取り戻すことなのである。聖杯物語に出て来る我らが英雄ペルスヴァルは、探求の中で3つの段階を経験する。第1段階の彼は純真無垢で他人のいう事を疑わずに受け入れる。これは行動について意識していない段階である。第2段階は疑いである。ペルスヴァルは言われること全てに反抗する。というのも、何をやってもさらに面倒なことになるだけだと分かったからだ。第3段階で彼は、1人の女性を愛することだけは信じ始める。これは単に、左脳が作り出した、実感されにくく超自然的な神よりも、女性の方が自然でずっと信頼できることが彼にもようやく分かったからである。そしてこの時から不思議な事が起こり始めるのだ。

(邦訳241ページ)
パルチヴァール<ペルスヴァル>の探求の旅には、3つの段階がある。第1の段階では、無邪気に人の言うことを何の疑問もなく受入れる。。。

(邦訳224ページ)
聖杯伝説において。。。再生とは、単に精神浄化というより、負わされた罪を祭儀を通じて償うことが優先とみなされているようだ。それは過ぎ去ったこととの訣別であるにちがいない。古い世界は来るべき新たな世界のために死ぬのだ。新たな周期が巡ってくると、その新しい状況は新しい人々の出番なのだ。原理原則は変わらない。「国王が召された、国王万歳」とは、そういうことなのである。

(340ページ)
ケルトの物語で何度も繰り返されたように、聖杯の基本的なテーマは、女神と、英雄である王との、ふたつの原理が結びつくことであることをわれわれは見てきた。この事実は、楽園にとっては欠くことができない条件である。

しかし、人間独特の大きな夢は、社会的、経済的、精神的に望むべき要素をすべて兼ね備え、自分に合った楽園を創造することである。望まぬ要素は一切不要なのだ。

(213ページ)
彼は馬のおもむくままにまかせた。合理的な支配を騎乗者で表わす一方、ヴォルフラムは存在の自然の流れを馬で表わしているのだ。善も悪も識別しないのが「自然」というものである。キリスト教の騎乗者たちは、善であると考えられるものだけを許し、あとは自然を支配しようと試みるだろう。だがパルチヴァール<ペルスヴァル>にはその気はなく、馬の行きたいままにまかせている。物事の流れを信じて、水の流れるままについて行く道教の人である。。。好きなように進み、自然にそれ自身の道をとることを許すとき、最上の結果がもたらされるのである。

(347ページ)
(タロットの=)「恋人」のカードで、グノーシス主義カタリ派、聖杯の根元的メッセージが初めて合流する。「恋人」は調和と完全無欠を表わすカードであり、これと対をなす「節制」も同様であ(る)。

<節制の>カード<写真1>の左下の、光明への道は、ふたつの峰の間を通る。前にもふれたように、2つの谷を貫く” Perce a Val”であり聖杯の英雄Perceval<ペルスヴァル>の名前そのものである。

(356ページ)
パルチヴァール<ペルスヴァル>は自分の愛に忠実であると同時に、自分自身より大きなものの探求には真摯であり、しかも謙虚になれたために、探し求めた物を手に入れるのにふさわしかった。彼は自然のままであるということを信じ、他人の超自然的概念を受け入れようとしなかった。さらに彼は、人生を黒と白に分けようともしなかった。事実、彼と白黒まだらの兄フェイレフィースが一体となったように、実在するすべてを縫い目のない一体物として受け入れた。パルチヴァール<ペルスヴァル>は自己をも含め、すべての自然を精神的存在として受け入れた。

(362ページ)
新しい形而上学心霊主義>の時代を迎え、西欧社会は霊的商品を陳列するスーパーマーケットへと変貌した。求道者たちは精神的変身を試みようと必死になっている。ヒンズー教の教師、セラピスト、説教師たちは口々に、もう少し努力すれば(with only a little more effort, sending a little more love and light,)われわれの望むゴールへ到達できると説くのである。解脱、精神的解放、高度の自覚、心霊的恍惚感、そして悟りへとである。

霊的商品を陳列するスーパーマーケットってのはニューエイジへの悪口としてふさわしいが、心霊主義スピリチュアリズムにはふさわしくないと思うな

私としては、心霊主義は一定傾向の霊的商品の専門店って感じだな(霊的商品と言ったら怒られるかな?ニューエイジと違って、おそらくそんなに商売商売してなかったから)

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図説 聖杯伝説 ~その起源と秘められた意味 単行本 – 2010/4/28
マルコム・ゴドウィン (著), 平野加代子 (翻訳), 和田敦子 (翻訳)

もう少し努力して愛と光を送り続け、世界平和ないし個人的豊かさというゴールに到達することの何が悪いのだろうか?
神の御許へ戻ることや、高次の意識に達すること、あるいは宣伝されているような、望む場所に到達するためのイニシエーションを授けると請け合う体験を行いたいと思って何が悪いのだろう?
問題なのは予期していることである。
このような事のいずれかを実現させたいと左脳で予期するとき、あなたは井戸の乙女を犯しているのだ。

それが今にも起こるものと信じようとしたらどうだろう?

「今にも起こる」どころか、「今起きている」というべきだろう
信じることは左脳の機能である;
それは創造性が発現するのを阻むのだ。というのも、創造的な右脳はまた、信念と現実を二分して考える経験主義の脳半球でもあるからである。

願望とは予期することである。
予期とは、右脳にとっては将来の事と理解される。従って今すぐではない。右脳が創造を行えるのは今だけだ。

私達が願う時には、将来の対象を心に抱くのである。右脳は今の事しか知らない。

もし私達が神を愛したいと願えば、私達は神を愛するという将来の目標に関する概念(左脳による)を持つことになる。
それは今存在し得ない。だから私達は、不断に神を愛そうとしつつも、継続中の今は神を愛していないという葛藤を経験することになる。

もし私達がロトくじを当てて、左うちわで暮らす将来を左脳でイメージするなら、それは今ではない。だから今は無一文が続くのである。

私達が幸せを願うときには、左脳で概念を作り出し、将来の幸せを思い描く。右脳はこれを現在の不幸として理解し、この結果何千もの不幸な経験が現出することになりかねない。

まあ、厳密には、イメージしたり、思い描いたりして、そうなった場合の感情状態になれるのならば、脳は現実と想像の区別が出来ないので現実化する、とでも言うべきかな

まあ、左脳で「ロトくじを当てたい」と思ってもダメなのはその通り

同じ理由で、私達が愛と光を誰か受け手に直接送るとき、将来を修正し解決するという概念を抱くが、これは現在が壊滅的な状態であるということについて右脳に信号を送り、私達の人生はこの影響を感じることになるのだ。

「愛と光」を送る、というのは、洗脳波動を送って相手をコントロールしようという発想であり、そもそも根本的に自己奉仕的である
より広い意味では、私達は集合意識の右脳に対して、将来は平和な状態が望まれるという信号を送り、今が平和でないと伝えているのである。
このように右脳は今、創造するのである。リニアな時間の知覚が絶えず報酬を将来に映し出すため、現在へのアクセスが阻まれる様は、永久に鼻先のニンジンを追いかけ続けるロバさながらだ。