世の中色々なスピリチュアル説があるけれども、大体どれも、「我々は神であり、それでいて最終的にはワンネスになる」ってのは共通してる所ではなかろうか?
奇跡のコースも似たようなことを言うんだけど、その共通してる所からいくらかはみ出しているというのが特徴的だ
共通説においては、
1:まず究極的な神たるワンネスがあり、
2:それが分離して我々たる、神としての潜在能力を持つ個別的な人間になって、
3:それぞれが進化することによってワンネスへと帰る
奇跡のコースにおいては、
1:まず究極的な神たるワンネスがあり、
2:そのコピーとしてのワンネスがあって、
3:コピーされた神がオリジナルの神から自分が分離したのではないかとか勝手な勘違いをし、
4:オリジナルの神に対して恐怖し、戦いを挑み、その戦略として、自分を個々の人間へと分離する、
5:許しやらなんやらによって、個々の人間からコピーされた神たるワンネスに戻る、
6:コピーされた神はそもそもオリジナルの神から分離したこと等なかったということに納得し、オリジナルの神の下で安らぐ
・・・というような感じで、それぞれの説の流れはなっていると思われる
というわけで、奇跡のコースによると、我々は、悲しいかな、どう背伸びをしてもオリジナルの神ではない、コピーされた神である
私が奇跡のコースを評価したいのは、我々の肉体的・物質的世界は様々色々なものが時間空間的に分離して出来ているが、それに対して説明があることだ
なぜ、我々の肉体的・物質的世界は様々色々なものが時間空間的に分離して出来ているのか?
それは、そもそもこの肉体的・物質的世界を作るという戦略は、コピーされた神が自分はオリジナルの神から分離したという前提から出来ているからだ
そもそもの発想が「分離」なので、その発想から出てくる創造物も「分離」を表すというわけだ
私はこれをなかなか「なるほど」って思うんだよね
そして、この説明の仕方は共通説では使えない
共通説だと、なんだか知らんが、ワンネスが脈絡なく、とにかく時間空間的に分離した肉体的・物質的世界になった、というしかないんだよね
さて、コピーされた神、と言った時に、そのニュアンスが読者に分かるだろうか?
私としては、次のような例えで考えると伝わるかな、と思う
例:Windowsの中で、同じ型のWindowsを仮想マシンとして走らせる
仮想Windowsは、オリジナルのWindowsが出来ることなら何でもできる
しかし、仮想Windowsは、オリジナルのWindows無しには存在しない
仮想Windowsは、オリジナルのWindowsから分離して、独立に存在することは出来ない
コピーされた神とは仮想マシンのような感じ