アラフォー賢者の気ままな引き寄せライフ~第四密度行ったら本気だす~

気ままにスピ雑談、多少は人が見て勉強になりそうなことを書いていく

(本)日本人の身・心・霊6

◯幽明の霊的交通

まあ、「霊界との交通」という意味である

療術の本ではない、心霊主義スピリチュアリズムを紹介する本

「当時すでに、心霊主義を紹介するような本が日本に出てたんだよ」という意味で、この本が「日本人の身・心・霊」シリーズの中に入っているのだと思われる

著者は中々博学のようで、色々ぐちゃぐちゃ書いてあるのだが、前半は「こういう霊媒がいて、こういうことやった」とか、霊界通信(レイモンドに多くのページが割かれている)とか心霊写真の紹介

個人の名や地上の年代を幽界に伝える困難の理由、「俗名は霊界では使われず、新しい名前を与えられる。俗名は次第に消滅してしまう」

鎮魂帰神法でも、かかってくるのが元人間ならば大抵神名を持っている。副島種臣は正名已貴命、正照毘古命。本田親徳は国咫計毘古命。

これは面白い指摘だね

しかし、副島種臣ってかなりスピ系の人だったようだねえ

 後半は心霊主義に親和性の高い哲学の紹介、太霊道の論評、鎮魂帰神法にもちょこっと触れてある(ここらへんは当時っぽさがあっていいね)

ドイセン(パウル・ドイセン - Wikipedia)の哲学がページ割いて紹介されているけれども、まあ、カントの焼き直しかな

要点は、物自体は時間・空間・因果律を超越するということであり、これが超能力や超常現象の説明に適しているということかと

 

◯精神統一の心理

面白い

著者は福来友吉、心理学で東京帝国大学助教授まで行った人、念写で有名

この本は、正統アカデミズムから追放された後の思索

福来友吉について、私は日本の超心理学の開拓者として偉大な人と思っていたが、浅い評価だったね

アカデミズムから追放された後、彼は宗教の方(特に仏教)に行ったようだ

そこで宗教体験とかして手応えを掴んだようである

仏教に大いに影響受けているが、しかしそれでいて彼独自の視点が貫徹されている

一から十まで論理的に整理されてるとは思わないし、全てに同意するわけではないが、彼の魂の熱を感じる

また、心理学・心霊研究をやってただけあって、合間合間に出てくる具体例が興味深い

観念は生物なり、要求が物質上に働きかけて自己実現していく

これだけ聞くと、ニューソートっぽいけど、大分違う話

また、昨今話題のエグレゴーレとか振り子とかとも大分違う話

死の恐怖は実現すべき一切の要求が断絶するから

生命はテレオロジー、テレオロジーは要求

目的論(英: teleology、独: Teleologie)

観念の要求、肉に自己の姿を実現すること

古い心理学は観念は肉に働きかける力がないと言うが、ドイツのラングやアメリカのジェームズはそうでない

人格上の決心によるものではなく、観念を思い描いただけですぐ起こる運動。観念運動。寒い時でも扇を持つとつい扇いでしまうとか。

観念運動は伝染しやすい、模倣運動。隣の人が時計を見ると、その隣の人も時計見るとか。日蓮宗の寺で狐憑きのお祓いをしてるのを見ていたら、その晩に自分達が狐憑きの挙動をしてしまったり。

仕事をする場合には、観念運動の心理を利用して能率を挙げるべき。田植えをするには田植え歌のリズムが必要である。軍隊でも、疲れた時に軍歌を歌いながら歩くと疲れを忘れる

観念による生理的変動、催眠で焼いた火箸だと言って鉛筆当てると火傷する、想像妊娠、子供の顔つきが里親に似る

他人の言語行動を一心に見聞していると、真似る意志がなくても、心も身体も一致するようになる、感応

精神治療も観念の自己実現の結果、「病気は治る」という観念

赤ん坊から今日までどんな小さな経験でも精神に現存している

大町桂月の「人の運」の序文は肉筆を写真に取ったもの:次世代デジタルライブラリー。書物の扉の「人の運」という字を念写させると、その文字だけでなく、序文まで薄く写っていた。能力者はこの本を前に読んだことがあったが、序文を思い出せなかった、そういう経験が念写に現れた

観念は無数だが肉には限りがある、肉の所有をめぐる競争が起こる、共通の目的を持つ観念が連合する=人格

社会全体の幸福を増進し、世間の人々とともに人生の趣味を味わっていくのが、文化生活の意味

無数の観念の一部が肉を所有(=顕在意識)し、多数の観念は肉を所有できない=潜在意識

潜在観念は、人格の隙間あれば油断に乗じて自己実現をなすべく機会を狙っている

近年の多重人格の研究からして、観念と言わずに、普通に人格と言った方が良さそうに見えるが

アンナ・ウィンソールの症例。右手を自分以外のものとする。右手が、髪を抜いたり、服を裂いたり、乱暴をす

ヒステリーは、全ての筋肉を、一つの人格の元に統一して働かせることが出来ない精神状態

小部分の記憶のみが人格に統一され、他の部分は人格の外に隠れている

これは多重人格の例そのもの

潜在意識が色々な幻覚を見せることがある

風邪で発熱した時の幻覚が、旅行に行った時に熊本のものと分かった。実は2〜3才に熊本に行ったことがあった

言いたいことが言えないで熱を出すヒステリー患者はよくある。自己実現を妨げられた観念が身体に働きかけている

日蓮宗の罪障。潜在観念を解放して自己実現させるか、説諭して鎮静させる。懺悔も観念の変態活動を治すのに必要

強迫観念は人格中の一観念が他の観念を圧倒して自己実現せんとするもの

自殺の強迫観念、「私は窓から飛び降りて死んだらどうか、忘れようと思っても忘れられない。死んだほうがよいだろうか」、「そういう観念があったなら仕方ない。早く死になさい」、「よく分かりました、おかげで死ぬ気がなくなりました」。子供が泣くのに、泣くなというと泣き、泣けというと止まる。抑えるよりも解放した方がいい。無闇に抑えると増長する

夢もある意味強迫観念。人格不統一になると夢を見る。眠るべき時に、夢に邪魔されているのだから、強迫観念の弱いもの

人格分裂、潜在観念の共同団体

ある婦人が死にたいという考えを持っていて、はさみで喉を突いて死にかけた。主人が見つけて止めた、彼は催眠術が上手で、「死ぬという観念がなくなってしまう」と暗示した。制止された自殺観念は人格区域から潜在域に入った、死神になった。ある日、婦人が二階で昼寝してると、名前を呼ぶ声がする、見たことのない怪しい婦人がいて「もっとよい所に連れて行ってあげましょう」と言って、手を引っ張る。「誰か来てください」と叫び、主人が来ると消えている。5、6日後、湯屋の帰りにあの怪しい婦人がいて、「私の行く所に行ってください」と必要に勧める、ある所まで行って下を見ると、深い谷間で、花が咲き乱れ、少女たちが遊んでいる。「あの谷間に降りましょう」と言われた時、瞬きすると、そこは木津川で、川に飛び込むところだった。横を見ると、婦人はいなくなっていた。潜在観念は第一人格の要求に合うように色々と芝居をする

怪談だね

日久上人の修行を邪魔する悪魔

千里眼婦人の第二人格である天狗。第一人格はできないことでもできると言いはる。手を触れずに念写できる、というが、口実をもうけて触れる。誤魔化しのできない方法を言い渡すと、天狗が出てきて、手を触れさせるように談判する。それを拒絶すると、婦人は高熱を出した。見ていると、天狗が現れ、「熱が出ると困るじゃろ。私の言うとおりにすれば熱はすぐに下げてやる」と言う。千里眼はともかく、天狗の働きで熱が下がるなら見てみたいと思い、「言うとおりにしましょう、但し二分の内に平熱に下げなさい」と言うと、そうなった。精神の力で、熱の上げ下げができると実験された

魔が差す、雑念、潜在観念が人格の隙に乗じて筋肉の統一活動を乱すこと

精神統一とは、一切の観念が一つの目的実現に向かって共同一致すること

雑念がなくなってくると瞬きがなくなってくる

岡田虎二郎は瞬きをあまりしなかったそうだが、雑念が無かったのかな?

精神が統一した時には、全身筋肉が尽く自由に使える

声は人格の表れで、精神統一で魅力を持つもの。聴衆に理知で理解されなくても、一種の霊動を感じる

剣道で、打とうと思ってから打つのでは不可。打つと思うままに打つ。観念の活動と身体の活動がぴったり合っている。打つのに手だけで打ってはならぬ、全身で打つ。細胞を統一して打つ

精神は脳髄皮質に粘りついているのではない、精神は宇宙に遍満している、身体は霊の内に浸されている

宇宙に遍満している霊は、それ自身不可知だが、身体に現れる時は自我と認識される

生命主義では、人生は宇宙大霊のテレオロジーの実現であって、幻影ではない。人間の欲念も大霊の要求から生み出された実在であって幻影ではない。大霊との連絡を忘れるのが、無明我執煩悩。宇宙生命のテレオロジーに参加すれば、煩悩即菩薩。

肉の生活を捨てて神と冥合せんとするのではなく、神と冥合することで肉の生活を有意義にする。即身成仏

長い間の学問は私を少しも幸せにしてくれませんでした。5060年の間呼吸しているだけのこと。何のために生まれてきたのやら、生きているのやら、死ねば何になるのやら。生きるということは本当に無意味なものであります。私は一時間でもいいから、人間として生きることの幸福はこれだと如実に感じてみたいと、真剣に願ったのであります。私はある重大な事実を発見しました。慈悲が欠けているということ。壱を愛することによって、日々の仕事に生きることの趣味を感じうる。生きることの本当の幸福を味わいたいと思わば人を愛さねばならない。しかし如何にしたら慈悲の心を養いうるだろうか。学問では駄目であることは明白。そこで信仰により養うより他に道がないと思いました。

それで、悩めるものは慰めてやろう、飢えたるものは食わせてやろう、足の弱いものは手を引いてやろうと、四国巡礼に行ったそうだ

こうしていく内に心が清浄になり、慈悲に浸されるようになると、身体が軽快柔軟となって、なんとも言えない心地であった。全身数百万の細胞が統一している結果。幸福、法悦

高野山で修行。一緒受け院名拝んでいると身体の状態がだんだん変わってくる。一種不可思議の感じが足のほうから登ってくる。しかし、どうしても胸から上に行かない。この時、音楽を聞くことができれば霊感が障壁を突破するだろう、と思ったら、隣の寺で誰かがヴァイオリンを引き始めた。それで、霊の洪水が胸を超えて全身に漲った。これで生の幸福を味わい尽くしたのだから死んでも差し支えないと感じた

こういう経験があってから、宇宙生命のテレオロジーを深く信じるようになった

無学祖元の「電光、影裏に春風を斬らん」という心地は、ただ死に平気になるだけ、積極的歓喜はない。宇宙生命のテレオロジーを直覚できれば、死そのものの中に永遠の不死の生命の歓喜を味わえる

観念が自分の身体を超越して活動するのを神通力という。

脳みその中に意識があるのではなく、意識の中に脳みそがある。ベルクソン物質と記憶」の議論を推し進めるとそうなる

空間は精神なり、空間そのものが力、霊の実在

神通力を起こすには、観念を強く起こすと同時に身体を空にして両者の連絡を断つ。神通力者が働く時は死者のよう、無感覚で失神した状態にある

どんな人でも死に際には神通力を現しやすい状態になる。死は身体に宿って、自己実現していた観念が身体を離れること。この時、神通力者が精神統一してるのと同じ状態になる。死の知らせ。

念写は数枚重ねた乾板の任意の一枚に写すのが妙。念写の写真が載っている

宇宙生命のテレオロジーというのを基礎に真善美を論じる。真善美は哲学の三大テーマである