「神なる自己」への入り口は静寂を通して触れることが出来ます
多くの人にとって、静寂とは瞑想を意味します
長時間の深い瞑想は「大いなる源」への最短距離ですが、誰でもができるわけではありません
奇跡のコースの立場では、長時間の深い瞑想でも「大いなる源」へ至ることはできるが、時間節約のために許しをすべき、となる
だから、長時間の深い瞑想でなく「許し」が最短距離という主張だ
そもそも奇跡のコースとはコース、すわわち講座であるが、なんの講座かといえば、最短距離で「大いなる源」に帰ることを目指す講座なわけだ
ちょっとここでは、バーソロミューと奇跡のコースで食い違いがある
地球は二極性を持つ惑星ですから、苦痛を通して神を見つけることができるのでしたら、喜びを通して神を見つける道もあるはずです
静寂を強調しておきながら、なんか普通のニューエイジもののようなこと言ってる
神から分離したエゴの意識にとっては、人生は延々と続く批評と感じられます
神から分離しているという意識は、非常に長い時間と、非常に強力な精神的積み重ねの結果として生まれました
これも奇跡のコースに言及がある
悲しみから抜け出すには、神に近づくために自分で生み出した苦しみに向かって、感謝することです
「ありがとう」と言ってご覧なさい
悩みや苦しみのエネルギー域は強力で頑迷です
そこを無理やり通り抜けるには、時には歯を食いしばって「ありがとう、ありがとう」と無理に言わなくてはならないこともあるでしょう
小林正観のようだ
またはオポノポノ
「神なる自己」に見守られることも、支持されることもないままに、人が罪を犯すことができるという考えは、人間は神の存在がなくてもできることがあることを意味します
けれども、あらゆる瞬間に神が存在しないのだったら、あなただって存在しないのです
だとすると、どこに罪の意識があるのでしょうか
神が罪の意識を感じるとあなたは信じるのですか
「神は神聖だが人間は罪深い」という考えは、神が人間を作ったのであるならば、矛盾にならざるを得ないね
あなたの存在が完璧だというのは、単なる概念ではありません
それは「感覚」なのです
このように、感覚、感じ、感触というのを強調するのは、さやか以外では初めてかも
意識には自分と他人の違いがわからないのです
意識が他人に向けられている時には、考えの内容が何であれ、貴方自身のこととして受け入れます
自分が考えていることにもっと注意を払って下さい
まあ基本だね
だから、他人の悪口とか言ってると良くないよ
ラマナマハリシは「私とは何なのか」と自分自身に問いかけよ、と言います
マハリシの言う意味は「目覚めた意識の中の『私』である部分、他の何者でもない『私』を感じよ」ということです
どうなのかな?
非二元系の人はこうは考えないだろ?
非二元的には、マハリシの言う意味は「『私』なんて本当は無い」ということだ、だろ?
バーソロミュー2を悟り系だと評しているのを見かけたが、私はそうは思わないけど、マハリシとか入れ込んでくるんだから、そう思っても仕方がない面があるね
ちなみに、この部分は、「意識が目覚めた意識にフォーカスすれば、フォーカスしたものが拡大するという原理によって、目覚めた意識が強まる」ということを言っている
なんかこう、ニュー・ソートの原理やマハリシを混ぜたりして、色々やってるなという印象
神は思考ではないからです
神は感覚なのです
感覚を強調してる
魂は球体
完全性の体験に近づくと、人は円や球に気づくようになります
球体には、あなたという存在を統合する力の核が含まれているのです
自分の完全性を目指す手段としてイメージ法を使うのでしたら、球体を道具として使えます
へえ
ハワイではリラックスしないというほうが、むしろ難しいのです
美しい島の穏やかさは人の心をとても落ち着かせます
自分の住んでる所を離れて、義務や責任がほとんどないところに居ると、人は心の鎧を脱ぎ始める
私たちが旅行するのはこのためです
スピ系の人が宮古島行くのもこんな感じだろうか
感情を持ちたくないと思う気持ちには注意しなくてはなりません
水道の蛇口は開いているか、閉じているかのどちらかで、閉まっていれば、全く何も感じることは出来ません
つらい気持ちも表面化するでしょうが、それ以上に、あなたを生き生きさせる神の至福を感じるでしょう
リスクを犯すだけの価値があります
保証します
感情を感じることの重要性は色んなチャネリングでよく言われるね
あなたの悩みや罪の意識はそのほとんどが、自分というものの本質を誤解していることに起因しています
あなたが肉体だとしたら、行動だとしたら、言葉だとしたら、当然、あなたは悪いことをしました
有罪です
けれども、肉体でないとしたらどうでしょう?
あなたの心は、自分の肉体や心や言葉が引き起こした罪悪に対して、カルマ上の償いを自分にもたらそうとします
他人を傷つけたときの行為をよく吟味してみると、自分を肉体とみなす部分の自己が、自分を守るために必要だと感じてした行為だった、と分かります
肉体としてのあなたが、安全であることは決してありません
誰も傷つけないという調和の精神で地球が満ち溢れるようになるための唯一の道は、大多数の人間が怖れを感じなくなることです
自分の安全を守るために、他人を攻撃する必要がなくなります
けれども、現在の所、あなた方は恐れを持っており、したがってあなた方の愛は不確かなものとなっています
恐れは攻撃を生み、愛は調和を生みます
出たね〜、奇跡のコースのキーワード「愛と怖れ」
ここで「愛と怖れ」の本質的な意味を論理的に考えてみると、愛とは「私は肉体でない」という意味、怖れとは「私は肉体である」という意味になるだろう
世間一般の意味での「愛」と大分意味合いが違うということに注意
これが分かれば、ジェラルド・G・ジャンポルスキーとか「中々感動的なんだけど、全然奇跡のコース理解してないんだよな」ってなるよね