「殺すのが彼らの実際の目的ではない。。。殺してしまえば、また別の宿主を探さねばならないのだから。
彼らの狙いは進化しようとするもがきから生じるすさまじいエネルギーを、できるだけ長く食いものにすることなのだ」(105ページ)。
「だが、ウエティコ[すなわち精神寄生体]としては、私たちをあまり早急に殺す気はない。
というのも、この次元全体で自己複製し繁殖するというアジェンダを成功裏に遂行するには、このウイルス自身が広まるのに十分な寿命だけ宿主を生存させる必要があるからだ。
宿主の死が早すぎると、この菌は未熟なまま立ち退いて新しい住まいを見つけなければならないという不便を被ることになる」。
人類は家畜
「したがって彼らの目的は人間に心の中の世界を気づかせず、その注意を外へ向けさせることだ」(105ページ)。
これら捕食者たちの戦略とは、私たちの注意を外向きに逸らして、私たちが元々持っている内なる意識の莫大な光を発見して利用するのを止めさせることなのである。
ウエティコは私達が「客体参照モード」のとき、すなわち、外部世界に注意を向けている
― 問題は自分たちの外にあると考えている ― ときにしか、繁栄できない。
これに対して、「自己参照モード」(つまり、内省状態)にあるとき私たちは、 オブザーバー/参加者として私たちが持つ計り知れない創造力と共鳴しつつ、世界と私たち自身の両方の経験を形作るのである。
ふむふむ
オースティンは「彼らの最大の力は心の均衡を失わせる能力にあるらしい」(207ページ)と書いている。
解離性障害を生み出すにせよ、そうなるように心を食い尽くすにせよ、 精神寄生体は人々の心を分裂させ、均衡喪失を強いるということらしい。
そうなった場合、私たちは本来常に利用できる、内在する全体性およびあらゆる可能性との接触を失ってしまう。
二極化をインスパイアし、結果として生じたそれを食い尽くしつつ、 精神寄生体は人々が自分の影を自分の外に投影する無意識の傾向を利用し、つけ込み、便乗し、促進する。
オースティンの言葉を引用すると、精神寄生体は「人間に敵を自分以外のところで探させて」いるのだ(256ページ)。
私たちが自分の外に敵を探している限り、 私たち心の内側に棲み、私たちが自分の影を自分の外に投影するように援助を惜しまぬ真の敵は無罪放免のままなのだ。
なるほど
オースティンは書いている:「これまでにも彼らは人間の心がそれ自身の奥底にある秘密を解きあかしそうになると、わざと心を他へそらせるという妨害方法でいつも邪魔をしてきた」(235ページ)。
興味深いことに、スピリチュアルの最高の教えが唯一命じることとは、 私たちの気付きの制約のなさと永続性から気を逸らさぬようにというものだ。
そうだねえ
これらの寄生体は、その人の無意識とのつながりを通して、 彼らを混乱させ、進路から逸らそうとする。
たとえば、私たちが改革的でとらえどころのない洞察をあと一息で得られるというときに、 注意が逸れてしまって書き留められず、言葉にまとめられず、後からは気付いた内容を思い出せないというようなことがあるだろう。
あるいは、精神寄生体の秘密の心理操作をあと一歩で見極められるというところで、 気付いてみると癒されていないトラウマが再び誘発され、不安や恐れを感じたりするものだ。
あるいはこうした精神寄生体の言い訳を見抜きそうになったところで、 体じゅうが痛み始めて、そのためにた易く人格解離(すなわち分裂)を起こしてしまい、精神寄生体を発見する機会を逸することもある。
あるいは突然、食べたり、飲んだり、散歩したいという圧倒的な衝動に駆られて、 途端にその時起きようとしていたことに立ち会えなくなってしまう。
あるいは自分自身の中に光を発見し始めたのに、 見つかった内なる輝きとの絶え間ない関係を培う代わりに、 精神寄生体の策略に陥り、そうではなくて己こそが光であり、大袈裟に/誇大妄想的になって、自分が特別な人物なのだと考えてしまう。
精神寄生体は詐欺の達人であり、卓越したペテン師なのだ。
笠原敏夫の「抵抗」の概念を、これで説明することもできそう