さて、今まで同情というのを軸にしてスピについて書いてきたのだけれど、西洋哲学との関連でどんなもんかというのを試みに書いてみよう。
ちょっとそういうリクエストがあったので。
西洋哲学において、同情についてと言えば、ショーペンハウアーとニーチェだ。
ショーペンハウアーとニーチェはどっちもドイツであるし、時代的にも隣接している。
ショーペンハウアーは自らの世界観において、同情を極めて良いものと位置づけた。
ニーチェは、とりあえず、同情を悪いものと位置づけた。
という点で、対称的である。
そして、ニーチェは割と、言ってみればニューエイジ的である、ある意味ニューエイジの先駆者かも。(というのが、この記事の趣旨)
・・・正直、私はニーチェをあまり哲学的であるとは見ないが、とりあえず世間的には彼を哲学者と見るのでそれに従っておく。
あまり哲学的であるとは見ないが、というのは、彼は自ら真理を求めるという態度よりも、既存の哲学・思想・価値観に反発・反抗するという態度であるからだ。
ゆえに、彼は自分の体系書というのがないし、またアフォリズム的表現を好んだ。
それはそれとして、ニーチェが本質的に反抗であるとすれば、ニーチェを理解するにはショーペンハウアーを理解しないといけない。
というわけで、ショーペンハウアーの紹介。
物質世界の創造及び、人間含め個々の生物の生というものは盲目的な生への意志によってできている。
そして、生とは本質的に苦しみである、これが真実・真理である。
「おっ、仏教の一切皆苦?」とか思った哲学に興味ない人がいるかも知れないが、この時期にインドの仏典やらヴェーダ文献やらが初めて西欧で紹介されるということがあって、ショーペンハウアーに影響が強い。
但し、彼はカントの研究から似たような思想構造に達しており、その後にインド文献に触れて、「オー、インドの思想も同じことを言ってるじゃないか」ってなったんだけどね。
それで、その真理を悟った聖人の在り方とは同情なのである。
生とは本質的に苦しみであり、その大本の意志は盲目的で特に何の意味もない・・・その意志に引きづられ、苦しいだけの何の意味もない生を送る一切衆生に対して、モノの分かった人の取る態度というのはひたすらに同情だ。
というわけで、人類のために自ら十字架に掛かったイエスとか、飢えた虎を見て哀れに思い自分の身を差し出す釈迦みたいなのが理想像。
ここにおいて、同情というのが、なんとなしに人間倫理・道徳においてよしとされるけれども、明確にその本質として規定されたことに注意。
ちなみに、このような理想像、もっと端的には、動物や植物が可愛そうだからものが食べられないのでそのまま餓死しましたって感じの消極的自殺(寂滅って表現すると私としては格好良くて好きだが)は素晴らしい自殺で、末期癌で苦しいから死のうみたいな自殺はへっぽこ・ダメ自殺だとする(「自殺について」は確かそういう内容だったと思う)。
まあ、とにかく生というものをそういうろくでもないものと見て、同情を道徳として強調したわけだな。
対して、ニーチェは・・・ショーペンハウアーへの反抗なんだから、基調として生の肯定、同情の否定となる。
同情とは自分の優越を感じるためにやってるのだとか、同情とは無礼である(確かこんなんあったはず。バシャールの同情は誇りってのと似てないかい?)とか、あれやこれや同情の悪口を書く。
同情の道徳は没落だとかいう有名な発想も、ニーチェが意図したことではなかろうが、引き寄せ的に本当のことだし。
有名な永劫回帰、肯定的ニヒリズムだが、ショーペンハウアーは生は無意味なんだからさっさと寂滅しようって発想で、ニーチェは生は無意味なんだからやり続けようって発想と見ると、分かったような気になれるでしょ。
この点、スピでは輪廻転生で魂が経験を積んで来世に生かして進歩するんだって発想だから、生は無意味ってのは無いんだな(ニーチェはそこには反抗しなかったのね)。
補1:
ショーペンハウアーについて書いてて思ったけど、元々仏教に多くの影響を受けてる思想なだけに、ちょっとスピっぽいな。
盲目的な生への意志ってのも、ある種の自由意志否定、世界にやらされているってことだしねえ。
生が無意味ってのも、ダイジ的というかさやか的というか・・・。
補2:
ちょっとニーチェのいやらしい所は、こいつに体系書がない、つまり自説をそれだけで一つのものとしてまとめたのがないってのはもちろんなんだが、相手の言説に対して真っ向から反対するということがあんまりないってのがあるな。
じゃあどうするかって言うと、「◯◯と言ってるのは裏にXXという心理があるからだ」って書き方をすることが多い、それで◯◯の真偽ということに関しては触れないってやり方。
例えば、ある人が「あの葡萄は酸っぱい」と言ったとして、「それは君にはその葡萄に手が届かないからそう言ってるだけだろ、ハイハイ」って感じで切り捨てる、そして、もしかしたら本当に酸っぱいかも知れないのにそれを調べようとはしない、「ここの土壌はこうで雨はこんくらい降ったからこうなる」とか議論を尽くそうとしない。
そういう意味で、こいつは哲学者というよりも心理学者と言った方が妥当かな。
補3:
同情について二人がどのように言ってきたかを見てきたわけだが、人間はその語り様と生き様は必ずしも一致しないということも個人的には頭の片隅において欲しいと思う。
ショーペンハウアーは良い奴で、ニーチェはひどい奴だなんて、この記事読んで考えたならば、本当に短絡的に過ぎるとしか言い様がないぞ。
ショーペンハウアーは、ここまで同情というのを祭りあげておきながら、自分では特にイエスにも釈迦にもならず、割と普通に生活し寿命を全うした人だ。
一方で、ニーチェはさんざん同情に罵詈雑言を投げつけた挙句に、ある時馬が鞭打たれている所を見て、発狂し、「可哀想に」とか言って馬に抱きついて泣き出し、そのまま精神病院に入れられ、そこで死ぬまで回復することはなかったという人だ。