アラフォー賢者の気ままな引き寄せライフ~第四密度行ったら本気だす~

気ままにスピ雑談、多少は人が見て勉強になりそうなことを書いていく

LIFE IS RELIGIONその六

ソーシャル・ネットワーキング サービス [mixi(ミクシィ)]

 

12.粘り強く、懸命に、ネットワークする!

どんな人も、自分1人だけでは、すべてのこと、特に自分自身を完全に理解することができません。
私たちは皆、独特な洞察力と才能を持っています。
私たちは1人でワークすることはできません;
同じ方向を向き、独自の視点を共有し、自分では見えないものを指摘してくれる、志を同じくする個人たちのネットワークが必要なのです。
真のネットワークとは、魂の成長を目的としたコミュニティです。
他の人とネットワークを作ることで、私たちは物質的な次元をはるかに超えた魂のレベルでつながるのです。
このワークは文字通り世界をより良く変えることができるので、粘り強く励み、自然に物事が起きるに任せなさい。

読書し、洞察/経験/記事を共有し、他の人が向上できるよう助けなさい。
そうすればあなたも、鏡に写った自分の姿を見れるようになり、自分の持つ過ちが明らかになることでしょう。

つまり、あなた自身の行動や性格が映し出され、自分では見えないものが見えるようになるのです。

まあ、それも「自分の見たくないものさえも見よう」という気概があればの話である

自身の行動や性格の欠点が映し出された時に、「ああ、これは悪宇宙人エージェントによる攻撃だ」とか言って、映しだした人を排除できるし

自分の信念に合わないことを言ってる人を、「あんたは間違ったバーに来てるよ」とか言って、追い出すこともできる

これらはカシオペアンフォーラムでよく行われていること
ネットワークとは、本当の意味でのチャリティー、つまり愛餐(あいさん◇初期キリスト教徒の友愛の会食)なのです。
それは自分も他人をも作り上げます。
尋ねられたら知識を与え、ネットワークすることは、純粋な他者への奉仕STOです。

なぜ人々は自分自身をあまりよく知らないのだろうか(例えば、自分の性格、なぜ今のような感じ方をするのか、あるいは感情自体さえも)?
そして、どうすれば自己認識を高めることができるのだろうか?

...ここで問題なのは、「適応的無意識」に関する研究によると、私たちが見たいと思うものの多くは、見ることができないということである...。

重要なのは、人々がどのように自省を行うか、
客観的に外部の観点から自分自身の行動を見るのではなく、自省だけによってどの程度自分自身を、そして他人の反応の仕方を知ろうとするか、なのである。。。

あまりに異常な幻想を持ち続けることには。。。リスクがあるのだ。。。

たとえ自分自身について、よりネガティブな見方を採用することを意味するとしても、他人が自分についてどう思うかに細心の注意を払い、それに応じて自分の見方を修正しようとするのが有益だということはままある。

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自分を知り、自分を変える―適応的無意識の心理学 単行本 – 2005/5/20
ティモシー・ウィルソン (著), 村田光二 (翻訳)は未参照

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A: 愛とは光であり、その正体は知識である。

 

補足 -用語と定義-

ネットワーキング

自己への奉仕派STSが、最も強く最も冷酷な者を頂点とするヒエラルキーを自然と形成するのに対して、他者への奉仕派STOはネットワークを形成することになる。

まあ、カシオペアンフォーラムはかなりヒエラルキー的だと思うけども
カシオペアンの言葉を借りれば、ネットワーキングの概念は第4密度STOの前触れなのだ。

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A: いつだって「ネットワーク」だ。ネットワーキングこそ第4密度STOのコンセプトで、領域境界クロスの接近に伴って、第3密度に入り込んでいる。

Q: (DM) ネットワーキングは、第3レベルから第4レベルへと物事を成し遂げる方法なの?

A: ウェイブの影響によって、第4レベルから第3へともたらされる。

Q: (DM) それじゃあ、私達の1人1人がスキルを持って、それを育めば互いに助け合えるのね。

(L) 私達は皆、1つの身体の一部なんだわ。

A: それがSTOの生き方だ!

カシオペア実験の文脈におけるネットワーキングの概念を説明する上では、グルジェフによる「グループ」の定義が利用できよう。
「グループの中では。。。1人の成功は全員の成功だ。1人の失敗は全員の失敗だ」。
この意味でのグループは、秘教的(エソテリック)なワークの文脈の中にしか存在し得ない。
このようなグループに何の不和も理解の相異もないのは、命令系統があるからではなく、同じ真理が全員に見えているからである。

カシオペアンフォーラムが一応の平穏を保っているのは、「命令系統があるから」とまでは言わないまでも、ヒエラルキー的だからだと私は思うけども
詳しくはエソテリック/メソテリック/エクソテリック・サークルについてのグルジェフによる説明を参照して欲しい。

これが割と微妙かもしれない

というのも、グルジェフは、彼の生涯から鑑みて、グループ作りに失敗した人だからねえ

(360ページ)
何よりもまず、グループの中では全員がお互いに責任があるということを理解する必要がある。一部の手落ちは全体の手落ちとみなされる。これは法則だ。そしてこの法則は、後でわかるだろうが、1人が手に入れたものは全員によって獲得されたのだということに十分な根拠を与えている。連帯責任の法則は銘記しておかなければならない。これには別の側面もある。グループのメンバーは、他人の手落ちに対してだけでなくその失敗にも責任がある。1人の成功は全員の成功だ。1人の失敗は全員の失敗だ。たとえば、1人が基本的な規則を破るというような重大な手落ちをすると、グループ全体は必然的に解散に追いやられる。

(479ページ)
我々は秘教(エソテリシズム)の問題に近づいてきた。。。

我々の属す人類、つまり科学や文明に知られている歴史的、先史的人類全体は、実は人類の外側のサークルだけを形成しているのであって、人類の中には他にもいくつかのサークルがある。

だから、既知の人間も未知の人間も含めてその全体を、いわばいくつかの同心円を構成するものと考えることができるわけだ。

内側のサークルは「エソテリック」と呼ばれている。このサークルは、人間に可能な最高度の発展を達成した人々によってつくられている。彼らは最も完成した個性を有している。つまり、分割不可能な「私」、人間に可能なあらゆる形態の意識とその完全なコントロール、人間に可能なあらゆる知識、自由で独立した意志などをもっている。彼らは、自分の理解に反する行動をとることはできないし、行動によって表現されない理解をもつこともない。また同時に、彼らの間には何の不和も、どんな理解の相異もありえない。だから、彼らの行動は完全に協調的で、いかなる強制もなく1つの共通目標へと進んでいく。というのも、それは共通かつ同一の理解を基盤としているからだ。

次のサークルは「メソテリック」、つまり中央と呼ばれている。このサークルに属する人々はエソテリック・サークルに属する人々がもつあらゆる特質を有しているが、そこにはわずかな違いがある。つまり彼らの知識はもっと理論的な性格のものなのだ。これはもちろん、宇宙の性質に関する知識にもあてはまる。彼らは、たくさんのことを知っているし理解もしているが、その知識はまだ行動にまでは表れない。すなわち、彼らの知っていることは彼らのすることを上まわっているのだ。しかし、彼らの理解はエソテリック・サークルの人々の理解と全く同じように正確で、それゆえ全く同一のものだ。彼らの間にはいかなる不和も誤解もありえない。1人は他のみんなが理解するのと同じように理解し、みんなは1人が理解するのと同じように理解している。しかし前に言ったように、この理解はエソテリック・サークルの理解に比べれば幾分か理論的なのだ。

第3のサークルは「エクソテリック」、つまり外側と呼ばれている。なぜなら、これは人類の内的な部分の外側のサークルだからだ。このサークルに属している人々も、エソテリック・サークル、メソテリック・サークルの人々がもつ多くのものを所有しているが、彼らの宇宙に関する知識はもっと哲学的な性格のものだ。言いかえれば、それは、メソテリック・サークルの知識よりさらに抽象的なのだ。メソテリック・サークルのメンバーは計算し、エクソテリック・サークルのメンバーは熟考する。彼らの理解は行動で表されることはないかもしれない。しかし理解の上では彼らの間に差異はない。1人が理解したものは他のみんなも理解するのだ。

エソテリシズムの存在を認めている文献では、人間は普通2つのサークルに分けられ、「エソテリック」に対立するものとしての「エクソテリック・サークル」は普通の人々と呼ばれている。実際には、今示したように、「エクソテリック・サークル」は我々から遠く隔たった非常に高次のものだ。普通の人間にとってはこれさえすでに「エソテリシズム」なのだ。

「外側のサークル」は機械的な人間のサークルで、我々はそれに属し、またそれしか知らない。このサークルの第1の特徴は、これに属する人々の間には共通の理解がなく、またありえないということだ。誰もが自分勝手に、さまざまに理解している。このサークルは時には「混乱した言語」のサークルと呼ばれる。つまり1人1人が勝手な言語で話すサークルということで、そこでは誰1人他人を理解しないし、またしようと骨折る者もいない。このサークル内では、まれな機会や大して重要でない事柄を除けば、相互理解は不可能で、それも彼らの存在の範囲内に限られている。もしこのサークルに属している人々がこの理解の全般的欠如を意識し、しかも相互に理解しあいたいという欲求をもつなら、彼らは内側のサークルの方に無意識のうちに傾斜したことになる。というのも、相互理解はエクソテリック・サークルの中で初めて始まるものであり、またそこでのみ可能だからだ。しかし、理解が欠如しているという意識は普通全く違った形で人々のところへやってくる。

だから人々が理解できるかどうかは、理解というものが始まるエクソテリック・サークルへ入りこめるかどうかにかかっている。
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奇蹟を求めて―グルジェフの神秘宇宙論 (mind books) 単行本 – 1981/2/1
P.D.ウスペンスキー (著), 浅井 雅志 (翻訳)