アラフォー賢者の気ままな引き寄せライフ~第四密度行ったら本気だす~

気ままにスピ雑談、多少は人が見て勉強になりそうなことを書いていく

ソースは仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。善宇宙人は仁ならず、人類をもって芻狗となす。

老子 第五章 天地は仁ならず | ちょんまげ英語日誌

天地は仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。聖人は仁ならず、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗となす。

芻狗:一説に、藁(わら)を結んで作った犬。祭に用い、祭が終わると捨てたという。(芻狗・蒭狗とは - コトバンク

天地自然の働きに仁愛の心は無い、万物を使い捨てにしている。「道」を知った聖人の政治も仁愛の心は表さない、民衆に対して素知らぬ顔をしている。

仁というのは、「愛情、思いやり」ぐらいの意味である

 

スピリチュアルでは、やたらと「愛」ってのが強調されがちである

しかし、私は題名のごとくだと思うね

老子」というのも、ニューエイジで見直されたものだったりするはずだが、イマイチ影響がないという感じだろうか?

「天地は仁ならず、聖人は仁ならず」みたいな観点を誰も提唱しないとは

 

仁愛の心とは、所詮は自己奉仕的なものに過ぎない

他人を助けてあげ「たい」とかがそうである(カシオペアンによると「〜したい」は全て自己奉仕という)

また、「宇宙に仁愛の心がある」等と自分勝手な期待を投影するのは、自己奉仕的態度の最たるものである

一方で、他者奉仕は、他人に対するある種の無関心が纏わりついているように思われる

他人の自由意志を尊重するというのは、他人の意志を機械的・自動的に容認するということであり、その意志による行為でその人にどんな幸・不幸が起こるかに無頓着でいることである