天地は仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。聖人は仁ならず、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗となす。
芻狗:一説に、藁(わら)を結んで作った犬。祭に用い、祭が終わると捨てたという。(芻狗・蒭狗とは - コトバンク)
天地自然の働きに仁愛の心は無い、万物を使い捨てにしている。「道」を知った聖人の政治も仁愛の心は表さない、民衆に対して素知らぬ顔をしている。
仁というのは、「愛情、思いやり」ぐらいの意味である
スピリチュアルでは、やたらと「愛」ってのが強調されがちである
しかし、私は題名のごとくだと思うね
「老子」というのも、ニューエイジで見直されたものだったりするはずだが、イマイチ影響がないという感じだろうか?
「天地は仁ならず、聖人は仁ならず」みたいな観点を誰も提唱しないとは
仁愛の心とは、所詮は自己奉仕的なものに過ぎない
他人を助けてあげ「たい」とかがそうである(カシオペアンによると「〜したい」は全て自己奉仕という)
また、「宇宙に仁愛の心がある」等と自分勝手な期待を投影するのは、自己奉仕的態度の最たるものである
一方で、他者奉仕は、他人に対するある種の無関心が纏わりついているように思われる
他人の自由意志を尊重するというのは、他人の意志を機械的・自動的に容認するということであり、その意志による行為でその人にどんな幸・不幸が起こるかに無頓着でいることである