全く怖れを感じないで生きることが出来る―このことを、一体どれだけの人が信じるでしょうか
自分の人生に現れる魔物は、自分で創ったものであるという事実に直面して下さい
この宇宙は慈愛に満ちた世界だということを忘れないで下さい
惨めな人生は、人が自分で創りだしたものです
決して忘れてはならないのは、「悩みの中に答えがある」ということです
人間は物事を直線的に考えます
今ここに悩みがある、答えは未来にある、という具合です
そうではありません
今ここに悩みがあり、今ここに答えがあるのです
悩みを解決することに人生の意義を見出してることが分かるはずです
一旦悩みを解決すると、それを喜ぶ代わりに、「今度は別の悩みがある」と言い、悩みを見つけます
それが本物の悩みでなければ、本物を作り出します
それが緊急の悩みでなければ、出かけて行って人の悩みを借りてきます
そして、自分の人生は悩みだらけだと、互いにこぼし合うのです
本当にこんな感じじゃない?
それでは自由になることはできない、と理解して下さい
大きな問題をかかえて悩み苦しみ、その解決法として自殺を決心したような人は、「問題解決病」から自分を切り離すことができます
逆に、人生には色々不都合な問題があると思ってる人は、これからもその不都合な状態のままでいるでしょう
私が「望みなし」の状態が好きだと言ったのはこういう理由からです
「望みなし」の状態にある人というのは、人生を理解することなどできないという、基本的な叡智にやっと達し抵抗をやめた人です
理解しようとすると、自分で自分に頭痛の種を作るだけです
頭で人生を理解することは出来ません
問題は、あなたが何かを知らないということではありません
問題は、何かを見つけなければならない、あるいは、この瞬間以外に何か必要なものがある、とあなたが考えていることなのです
このような直線的思考を続けるならば、何度も転生して秘密の鍵を探し続けるはめになるでしょう
直線的思考とは時間を基礎にしているだろう
直線的思考を克服するには、時間がないということを理解しなければならない
が、これが基本的に人間には無理な気がするけどね
だって、どうやったって時間があるようにしか見えないんだから
見つける人は「悟りを理解することは出来ないし、理解する必要もないし、それそのものを生きるしか無い」ということを悟ります
人生はもっとよくなっては行きません
人生はこれ以上よくはならないという事実を受け入れることです
「この瞬間」こそが、「神なるもの」の姿です
求道ゲームを演じるようにしたのはエゴですから、勝てないと分かった時に「死ぬ」のはエゴです
エゴが最も好きなゲームは霊性を高めるゲームです
人生に道理などありません、まだそれが分かりませんか?
ラマナ・マハリシは「あなたはすでに悟りを開いている」と言っています
マハリシは続けます、「悟りへの唯一の障害は、自分は悟りを開いていないという考えである」
ということは、悟りを求めている人は「自分の方がマハリシよりも物がわかっている」と自惚れているのだな
まわりの人間はあなたに、自分たちより優れていると感じてほしくないのです
人生が退屈なのは、自分で何でも知っていると思うからです
けれども、あなたは何も知ってはいないのです
なぜなら、全ての瞬間は新しいからです
多くの人は、ストレスの多い状況を、わざわざ自分で選んで作り出しています
私もそう思うよ
「大いなる自己」は、未解決の問題に対処するように、その人に仕向けるには何が必要かを知っています
自己満足していると、「奥深き自己」はゲーム板の上に嵐を巻き起こし、駒を揺り動かし倒すこともあります
だから、自分から先んじて未解決の問題に直面したほうが楽
人間はただロボットのように、幸せなだけの人生を生きるようには作られませんでした
人間の目的は、動き続けながら、「自己」の奥へ奥へと入っていくことにあります
その怖れが強力なもので、現時点で理由のないものである場合、その原因は現世で生じたものではないかもしれません
毎日天の恩寵を待ち望んでるのにそれが起こらないと、人はそこから先へ進めなくなってしまいます
マスターとは「自分に出来るだけのことをして、この怖れに対処しよう」と言う人です
私の基本的な考え方は、「内なる自己」は各人が必要としていることを知っており、それはその人を常に幸せにすることではなく、その人の内なる進化を図ることだ、というものです
繁栄を望むなら、つかむ努力をして下さい
但し、あなたの内なる自己が、あなたは貧困の中の方がよく学ぶと思えば、また貧乏になるでしょう
あなたの成長に必要なものが、常にあなたの前に現れます
両方を経験する必要があります、貧困と富、病気と健康、殺すことと殺されること
私はこの考え方が嫌いなんだよね
断然、エイブラハムの考え方の方がいいよ
「内なる自己」だかなんだか知らないが、私が必要としているものをおまえに決められる筋合いなんぞ無いワ
・・・なんて思わないかい?
ここで、「内なる自己」とやらが何を持ってして「自己」なのか、ということに疑問を持たないだろうか?
だって、私がこんなにも嫌がっているものを押し付けてくる奴が「自己」だと称しているのだから
一神教で「神のみ心のままに」って言ってたのが、「内なる自己のみ心のままに」って言い方を変えただけなんだよねえ
偉い偉い神様が「こうしろ」って言ってるからそうしなきゃいけない、って押し付けと構造が同じじゃないか!
あなたがこの世にいるのは、自分の怖れを知るためですから、貧困があなたに怖れをもたらすのであれば、それは素晴らしいことです
その怖れを見る必要が無くなった時には、何も努力しなくても、富や財政的豊かさを経験するでしょう
「私は健康を信じる」と言って、健康に意識を集中することは出来ますが、自分がなぜ病気を怖れるのか、その根本原因を見つけない限り、病気しか目に入りません
病気も貧困もそれほど悪いことではありません
それは自己の内面の現実化として現れる状態ですから、それ自体悪いことではないのです
その怖れを手放すとそれについては完全に終了したことになります
そこで、来世では健康になる努力をすること無く、健康になります
この方法論が上手く行かないとは言わないが・・・
「人生は自分の怖れを知るためにある」って見方は随分辛気臭いような気がするな
エイブラハムで良いんじゃないの?
「病気や貧困によって、自分が健康や裕福を好むことが分かった、そしてその好みを現実化して楽しむのが人生だ」って感じでさ