この本を書いた人は、パスワーク財団って所の一番偉い人のようだ
パスワークをチャネラーが死んでから、パスワーク財団って所が管理保存し、その教えを広めるとか、その教えに従ったセラピーのサービスとかをやったりしてるみたいね
で、そこの一番偉い人が書いた、パスワークを概観するための本、という理解でいいだろう
まあまあボリュームある
・自分の考えてること・信念を点検すること、及び、過去の痛みを感じ直すこと、とかをやることを紹介している
非常に精神療法的である、というかほぼそう
こういうのが全て上手く行かないとは言わないが、このような精神療法において、しばしば泥沼化してしまうので駄目だ、という批判がある
例えば、子供の頃の悲しみを感じ直す、というワークがある
これをやることを勧めるパスワークの理屈はこうだ
過去の悲しみを感じないようにしていることは今現在感情を麻痺させていることである
それで、そのように感情を抑えこむということで無駄なエネルギーを損失しているし、今現在感じられる幸せ・楽しさとかのポジティブな感情を感じられない、ということで生活に問題が起こる
似たようなことをする精神療法も同じような理屈だろう
それはそれとして、実際にやってみると、例えば、いつまでもいつまでも「過去に、こんな嫌なことがあった、あんな嫌なことがあった」みたいなことばっかり言ってて、全然その人は成長しない、とかいうパターンがある(という、心理学の本とかを読んだことがある)
そうなると、「いつまでも過去のことをグジグジ気にしてないで、これからのことに目を向けろよ」、って話になるんだよね
そうすると途端に、引き寄せ的な風になるんだよね
このようにして、過去志向のやり方と未来志向のやり方があるわけだ
個人的には、どっちが正しいとかいうのではなくて、一方でやって駄目だった時には別のやり方があると考えれば気が楽だ、ぐらいに考えておくのが得策かと
追:
自分の考えてること・信念を点検すること、及び、過去の痛みを感じ直すこと、に関して具体例みたいなのが載っている
それを読むと、まー、まず、引き寄せを勉強してたら、そんな思考・考え方・物事へのフォーカスの仕方なんてしないよ(つまり、良くない方向に引き寄せが働く)、って感じなんだよね
・観察者としての自己
前々から、しばしばこのブログでは、世の中色んなスピ説があって、一見似たようなこと言ってるようでいて実は全然違うもの、ってのが結構ある、ということを紹介してる
今回もそれ
「観察者としての自己」と言えば?
まー、基本的には、この業界でメジャーなものとしては、非二元の「観察者としての自己」ってのだよね
パスワークでも「観察者としての自己」とか言うんだけど、一見似たようなこと言ってるようでいて実は全然違う
パスワークでは、自分の人格の未熟さやネガティブな所を直視せよ、という
そうしないと、それを変えることが出来ないからである
しかし、エゴは、自分にそのような醜い部分があると自分の存在価値がなくなる、みたいな理不尽な恐れを持つので、そのようなことを直視することに非常に抵抗する
その時に、「観察者としての自己」になるのである
醜い部分を観察した時、自分は観察者であり、観察される醜い部分ではない
そうして、その醜い部分に対して、改めてそれを変えていく、という選択が出来るのだ
・・・とかいうんだよね
だから、パスワークにおける「観察者としての自己」ってのは人格成長のためのツール(?)みたいな感じになるかな
一方で、非二元だとどうなるか?
本当の私は「観察者としての自己」だ
自分の人格にどんな問題があろうが、それはストーリーに過ぎないでしょ
人格が成長するとかしないとか、どちらにせよ、それはストーリーに過ぎないでしょ
私が「観察者としての自己」であることに気づけば、それでゴール、それがゴール
どちらが「観察者としての自己」という概念において正しいのか、ということを私はここで論じようとは思わない
私が強調したいのは、「観察者としての自己」という術語一つを見ても、色んな奴が色んな使い方をして色んな結論へと持っていくんだよ、という話
なかなかおもしろい、でしょ?