現在、「人生行路の諸段階」を読んでいる
「責めありや、責めなしや」を最近読み終わったところである
その中で、キルケゴール自身(というか、「責めありや、責めなしや」の主人公)がこんな感じのことを言っている、「内部のものが外部であり、外部のものが内部である」ならば憂鬱になる必要はない、と
「内部のものが外部であり、外部のものが内部である」とはなんぞや、と言えば、これはヘーゲルの精神哲学を言っているのである
ヘーゲルの精神哲学とは、世界の精神が世界の諸々の物理現象・社会現象を創造する、みたいなことだ
こいつはナポレオンを見て、「世界精神が馬に乗って通る」と評していたそうで、だから、まあ、そういうことだ
それに対して、キルケゴールは「それがどうした?この個人たる私に何の関係があるのか」という態度を前提としつつ、ヘーゲルの弁証法を借りて人間の自分自身を反省して発展する精神の在り方を記述する、ということをやったわけだ
ところで、キルケゴールの憂鬱とはどんなものであったか、をはっきりさせておこう
「責めありや、責めなしや」によれば、こんな感じである
幸せの絶頂にいたとしても、何かちょっとしたことが起こって不幸のどん底に落ちる、可能性がある、ということを認識することによって憂鬱になる、というのだ
例えば、健康で金があって素敵な恋人がいる状態だったとしても、ちょっとなんかの拍子に車に轢かれたりして、一瞬にして不幸のどん底に落ちる、ことがありうるということだ
このような可能性をしかと認識している人は、健康で金があって素敵な恋人がいるような、他人が羨むような外的状態にあって、なおかつとことん憂鬱な内的状態になれるのである
そういうわけで、幸せな状況にいようと、不幸せな状況にいようと、まともな人間は基本的に憂鬱なものである
というのも、このような可能性が無い、とは絶対に言えないから
憂鬱でない人間というのも一応世の中にいるのであるが、それはまともな人間ではない
具体的には、そのような可能性を認識できない人間となり、キルケゴール的に言えば無精神的な人間のみが憂鬱と無縁でいられるのである
例えば、サイコパスは憂鬱と無縁な生き物なのであるが、それは彼が可能性というものを考えられず無精神的であるからだ、ということにこれまでの論旨からするとなるわけだが、まさに本当にそうではないかな?
次にお題にあるようにその薬の話に行こう
それは、ニューソート、引き寄せ、である
どういうことか?
例えば、健康で金があって素敵な恋人がいる状態だったとして、それに対して感謝していれば、ちょっとなんかの拍子に車に轢かれたりすることなどない
このような可能性は無い、と言い切っちゃうのが、このまともでない宗教的原理なのだ
そして、そうであれば、憂鬱でいようがない
だって、この原理からすれば、「そんな可能性を考えて憂鬱になったりするからそういうことを引き寄せるんだよ」となるのだから
そこで私は気づいたのだが、ニューソートとか引き寄せというのは、ヘーゲルの精神哲学における世界精神というのを個人精神に変えたバージョンだ