さ
「これこれをした結果、死んだとしても、それで本望だ」という感触があるならば、絶対に間違ったことにはならないんです
これをやる時が、「あなた」なんです
それ以外は「あなた」ではないんですね
いつも言ってる言い方をするならば、「あなた」ではない人は死の世界を生きているんです
あなたは「あなた」でない時は生きていすらしないんですよ、と言っても、このことはどうしても理解できないんですね
「だって、それは考え方として、そんなの死んだも同然だ、という言い方は出来たとしても、実際に僕は心臓が動いてるし息をしてるんだから、生きているとは言えるんだ」ということは言うんですが、私達にとっては全く見当違いなんですね
ここが、もしかしたらですよ、私達とあなた達の最大の異なった考え方、という言い方ができそうなんですね
これが最も大きな過ちと言いたいですね
だから、あなた達の多くは生を放棄したまま生きているんです、つまり死んでるんです
これは考え方の話ではなく、形あるものは生きているというあなた達の認識不足から来る話なんです
本当にこれを理解するならば、生は無かった・死は無かったということが心底理解できるんです
これが分かると、生き残るために働くということがどれだけ意味のないことか、ということが滅茶苦茶分かるんです
これを分からないと、どうしたって、生き残るためには働いて糧を得るという発想になるのは当たり前なんですよ
そもそもあなた達は「あなた」でない時は生でない、だから働くために働いている時は生きていないので、生きるために働くという理屈は成り立っていない、という理屈なんです
これは、あなた達が大きな、大きな、大きすぎる間違いを犯しているんです
とすれば、あなたの言う生は何ですかと、私に聞きなさい
じゃあ、お答えします
それは全てが生だ、という言い方を前は言ったでしょ、しかしここにおける生という定義をするならば、私がいない状態を生と呼ぶんです
これは不可思議な話でしょ
「あなたでありなさい」と言いながら、「あなたでいない状態でなければ、あなたが生きていない」と言うんです
反対のことを言ってるように思えるでしょ
これを言葉で説明するのがとても難しいんだけれども、あなたがいる時はあなたは死んでいるんです
つまり、あなた感がある時はあなたは生きていないんです
そして、あなた感がない時はあなたは生きているんです
これが、あなたでありなさいの意味なんです
あなたは頭がいいから誤解はしなかったと思いますが、普通は反対に捉えるんです、「私らしさを発揮している時が私だ」という言い方をするんです
しかし、それは本当の私らしさではないんですね
あなたがいない時が本当のあなたらしさなんですね
これがマトリックスの仕組み、本当にそういう話なんです
私が夢を見ているのは誰かと言った時に、「夢が夢を見ている」と言ったのは何か美しい気の利いた言葉を言ったつもりではなく、本当にそれが真実なんですね
私達が言いたいのは、あなたというのは誤解なんです
あなた感と私達が何度も言ってるのはそういう理屈なんですね(あなた感とは、私とかエゴとか自我があるというのは本当にそうであるわけでなく、そういう感じがしているだけというニュアンス)
そして、その誤解を長引かせるというのは、あなたが生きていたい・生き残る・生存を続けるという意味なんですね
もしあなたがこの概念を放棄するならば、「生きるために働く」というのは「死ぬために働く」というのが正しい言い方だとよくよく理解できるんですね
「だって、生きるためには働かなくちゃいけないでしょ」と皆さん言うんですね、おもしろいこと言うなと私達はずっと思ってたんですね
だから、あなた達は反転した世界・逆様の世界に生きている、といつも感じるんですね
こういう意味で、私達はこの世界をひっくり返したい、というか本来の位置に戻したい、という言い方をしているんですね
あなた達はどうしてもそれを全て捻じ曲げた、というか反対のこととして受け止めているんです
「生を放棄した時に、そこから生は始まるのか。所謂死後の世界が生の始まりなのか」と言われれば、それも少し言い方としては異なっている、とは言いたいけれども、どちらか言えと言われれば、そういう言い方になるんですね
「あなたでないあなたらしさ」ということをもっとラクな世界として感じてみてください
その時に、あなたは本当に生きるのがラクになるんですね
やっぱり我がないとラクだ、という言い方ができてしまうんですね
これはいつもあなたが好きでない「自我を捨てろ」みたいな話にしか聞こえないのかもしれませんが、やはり結論はそうなってしまうんですね
そうなってしまうというか、あなたの思うようなしみったれた話ではないんですよ
何か禁欲的な、清貧のようなものと考えるならば、それは大きな間違いだと言っておきます
いいこととか立派なことという風に、「自我を捨てろ」という話をあなた達が感じているだろうと想像しますが、全くそのようなものではないです
とてつもない自由を得ることと言ったならば、「自我を捨てなさい」と言った意味合いが異なった風に感じられるのではないか、と私は言いたいんですね
「ワクワクすることをやりなさい」に「自我を諦めなさい」という言い方を重ねたいと思います
ワクワクすることが自我を捨てること、というイメージを持って欲しい感じなんですね
そうするとあなたがどれだけ自由になるか、と言いたいんですね
「働くのに興味がない、生き残ることはもういいやと思ったならば、そうしたら、でも本当に死ぬでしょ」と言ったんですか
「あーそうですか、おめでとうございます」なんですよ
もし私達の言ってることが仮に本当だとするならば、あなたでない状態で生きることは全く生きていないということを理解しながらそれを続ける意味が感じられるでしょうか
恐怖なんですよ、簡単に言うと
それはそこに価値を見出しているという話ではなく、分からなさという物語を続けているがゆえの恐怖でしかないんです、理由は
だから、とてつもなく潔く死んでしまう人達がいるでしょ、彼らは全くその恐怖がないんです
あなたの中に少しでもこの考え方が浸透して欲しいと願ってます
あなたは本当の生きるという意味を考えたらどうですか