ニューエイジの火付け役として有名なエッセイ、1954年。
オルダス・ハクスリーという頭のいいインテリ小説家が、メスカリンという幻覚剤を自分で試してみた所のエッセイ。
メスカリンというのは、幻覚サボテン、ペヨーテと化学的に大体同じもの。
メスカリンは人によっては本当に幻覚、ありもしないものを見たり聞いたりすることを引き起こすのだが、ハクスリーの場合はそれはなかった。
普通の人が普通に見たり聞いたりしているものを、違ったように見たり聞いたりした。
ただの椅子が、 ファン・ゴッホの椅子(彼は一部の芸術家はメスカリンやってる時のようなものの見え方を垣間見たのだとしている)のように普段とは異なった強烈な存在感を持って存在しているように見えたり。
このような見え方というのが、悟りだというんだね。
ベルクソン(前にも言ったようにSPRの会長やるような人)曰く、意図の潜在意識は宇宙の全てことを知っているのだが、脳がそれを狭める機能をしていて、普段の意識では非常に限られたものしか分からない。
この説をハクスリーは推している。
だから、化学的薬物なりヨガなり苦行なりで、脳の機能を落としてやれば宇宙意識を垣間見ることができるというのだ。
どうも、自我から開放されるようだよ。
自我が苦しみであり、それからの解放を求める、という思想ははっきり書いてある。
この場合、ダイジが言ってるような愛、つまりプラトンのイデアとかを持ってきて説明する所の形而上学的なものにフォーカスするのではなく、あくまでも形にフォーカスする、というのが特徴的かな。
普段見ているのと同じ形を見つつ、それを全く異なる存在感を持って見えている、という。
禅、に似ているのかな?
精神分裂病には地獄・煉獄とともに天国もあるというが、その天国の状態になるという。
例えば、服のシワを、尽きない興味をもって、いつまでも見入っていることでできるような状態。
こんな状態でいれば、日常的な悩みなんて遠くの世界のもので、ある種の至福。
但し、元々憂鬱や不安の強い人がメスカリンやると、地獄・煉獄方面しか体験できないというのもあるそうだ。
人間がロボットのように見える、他者を含む自我というのが薄っぺらい実在性のないものに見える、というのがメスカリンでもあるし、精神分裂病でもある。
だから、悟りと狂気ってのは近いところのものなんだよね。
エゴの無くす、と言えば聞こえはいいが、他者というのは自分のエゴの反射として成立するから、私のエゴが消えると反射的に他者も消える。
そのような世界は非常に空虚でアブない感じがする。
というか、そのアブなさに飲み込まれちゃったのが、精神分裂病であったりして、やっぱりあんまり幸せなものではないようだ。
そのようなものを示している参考として、「分裂病の少女の手記―心理療法による分裂病の回復過程」という本を勧める。
この本は分裂病のまずーい状態に入ってから、献身的な医師によって復活し(これは稀なこと)、まずーい状態にあった時に自分がどのようであったのか本人が語ったというのを扱ってる。
基本的には普通の物の見方の状態よりも不幸みたいだね。
彼は途中で、これ以上ナマの、むき出しの存在性、リアリティに向き合ってると精神が崩壊するかも、という恐怖も味わっている。
そのリアリティが、何か自分、私というものを飲み込もうと、消し去ろうとしているという方向に発想がぶれた時に、精神分裂症の被害妄想のような狂気になりそうだ、という。
あとは、幻覚薬物と宗教についてとか、言葉を過剰に評価し、それを超えた体験そのものを無視しがちな時代精神への批判とか。
なるほど、ニューエイジってのはそもそもこういうのから始まったのか、という感じがある。(途中で、超能力とか、チャネリングとか、UFO、宇宙人、天使、アセンデッドマスター・・・色々ごちゃごちゃしらのが混ざりまくったけれどもね)
おもしろい、読む価値あり、と言っておこう。
追:
・・・さやかによると、私をなくすという状態に対して、空虚な感じ、何もなくて寂しい感じがするということに異を唱えていて、甘え、とかあくまでもポジティブっぽい感じのものとして主張してる。
これは割と一貫して断固として、主張していくつもり、のようだよ。