彼の言ってるのをまとめてみる。
今とは、命、愛、光、種。
花は開く。
太陽が輝く、過去現在未来を超えて輝く。
幽体離脱で宇宙船で暗黒宇宙に行っても花は開き、太陽は輝く。
陰陽、だからどこ行っても陰陽、男女に相当するものがある。
「今しかない」って決め台詞を、このブログの読者なら聞いたことあるだろう?
これはスピ全般でも言うし、禅でも言うようなんだな。(私は禅に詳しくないんだけど)
でも、どうも言ってる内容が違うみたいなんだよね。
禅の言い方だとこのようになりそうだ。
晴れた真っ昼間に空を見上げると太陽が輝いている、眩しいので手のひらで太陽を隠す、すると太陽は存在しない、だって今には空と手のひらしか見えないのだから。
花が咲いている、それを衝立で隠す、花は存在しない、だって今は衝立しか見えないんだから。
こういう意味で、今しかない。
こりゃ、明らかにダイジの今とは異なっているよね。
暗黒宇宙に行っても太陽が輝いているんだから、花は咲いちゃってるんだから。
ちなみに、一兆年先にタイムワープして太陽がとっくのとうに燃え尽きてしまっても、太陽は輝いていると彼なら言うだろうね。
こういう意味での今。
まあ、まず分からないよ、普通。
今とは、命、愛、光、種。
命、愛、光って言っても増々分からない、種って言えば少し分かりそう?
陰陽が出てくるなら、太極と言ってみたら中々分かりやすいんじゃない?
でも、カント哲学における物自体と見ると、おそらく構造的に合致するだろう。
我々の知覚する世界は時間と空間を前提としてできている、そこから時間と空間というマーヤーを超えたものが物自体であり、今である。
とすれば、禅の今とは全然違う。
禅の今ってのは時間の中の今、ダイジのは時間の外の今。
時間の外にあるものを普通は「今」って言わないだろと言えば、まあ、そうかな。
まあ、だから愛とか光とか種とか呼んでもいるわけだね。
ただね、老子曰く「玄之又玄衆妙之門」で、玄は黒色みたいなもんだから、今とは闇であると私が言ったとして、今とは光であるというのより劣っているということもないだろう。
また老子曰く「天地不仁」、とすれば今は愛であるが仁でない、とも言えそうだ。
つまり、なんとでも言える。
そのようなものだと理解した時、それなりに理解出来てることになるだろう。
まあ、物自体と言っとくのがいいと思うけど。
そして、ダイジの今ってのがスピ、もっと具体的にはニューエイジの今に近いね。
追記1:
さやかの受け売りになるが、愛と呼ぶより甘えと呼んだほうがいいだろうね。
やっぱ達成しがたいものという印象が出てくるので。
追記2:
ダイジは文学や哲学の教養も中々あり、かつ、もちろんのことスピ関係についても詳しい人だ。
にも関わらず、彼には引き寄せの考え方がない。
自分の子供を殺された母親はこの世の全てのものが崩れていることを知ってる。
大切なことは君がどれだけ彼女と付き合えるか。
俺なりに彼女に優しくしてやるしかないな、それが君の愛だ。
こういうおセンチな所が自殺へと導いたんじゃないかなと私は思う。
引き寄せ信者たるもの、自分の子供を殺された母親に対して「それはあなたが引き寄せました、あなたの作った現実です。もしあなたがそれを好まないならば、あなたは異なる現実を創造することができます」といけしゃあしゃあと言い放つことができねばなるまい。
自分の現実は自分で創造しているってのがないとやっぱネガティブなんだよね。
現実は私と独立して勝手に存在する→現実はいつどのように私に食って掛かるか分からない、不安だ→私は現実に対して超然とした所にいる必要がある→悟りたい、って感じで行き着いた悟りというのは根本がネガティブなんであまりいい方向(趣味の問題?)に行かないような気がする。