この記事を読んでから、11.30メモ一読むと分かりやすいだろう。
動物について。
さ「完成された中で分からなさの感性がないのが動物。とてもラクに生きてるように見える」
さ「あなたの中にも動物がいる。」
さ「セイなる食物。あなた方は動物の肉を食べているが、それが動物そのものだ。だから、あなたの体の中に動物がいる。単なる肉を食べただけでなくて、魂ごと一緒に食べた」
さ「これは、本性では、私は彼ら(動物)だということ。そういう形で見てみる」
さ「人間同士の輸血や臓器移植で性格が変わったという例を、ここでも応用したら?」
ドナーの習慣や性格が移るという話がある。
それで、牛や豚は食べてるから私の中に牛や豚がいるというのは認めるとしても、猿やネズミは食べてないんだから私の中には猿やネズミはいないんだって考えられそうだが・・・
さ「食べてなくても同じ。彼らを見ていることが、彼らになったということ。例えば、ハンターが獲物を狙う瞬間に、自分がその獲物になった感覚を持つとか。それは普通にやってる」
なんかの本でそんな話を読んだことがあるかなあ。
さ「人間を見るのもそう。これを習慣としてやってみなさい、ラクになる。憎たらしい人に対して程よりラクになる。あなたはいないという祝福をもたらす」
「私の見る対象全てが私だ」となると、「世界全てが私だ」となり、私というのは所詮私でないものとの対比としてしか存在しないので、「私は無い」となる。
個人的には、サルトル「存在と無」と波多野精一「時と永遠」(確かそうだったと思うが)を思い出した。
さ「一つであるということを確認する方法はいくつもある」
さ「一つであると私はないは同じ」
独我論=「私は無い」ってことだよね。
これに理屈として文句つけられる人はいないだろう。
ってか、スピの「一」とは独我論だった!?
さ「可哀想とか憎いがなくなって、『私だ』しかなくなる。世界を平和にしようとかもなくなる。一つしかない、私はない、ここにしか安らぎはない」
うーむ、中島義道(「カントの自我論」のオチのような)みてえなこと言い出したな。
さ「本性はいつもママと一緒。だから、安心しておもちゃで遊べる」
ふーむ・・・、スピ歴長い読者なら、所々で「見る私」と「見られる対象」が一つであるというニューエイジ教義をどっかで読んできたことと思う。
「私の見る対象全てが私だ」→「世界全てが私だ」→「私は無い」、って持っていく有様を見て、私は「なるほど、こういうことだったのね」と思ったが、読者はどうだろうか?
さやかにしては、なかなかのヒット作じゃない?
S「そういう感性になったら、形は変わるの?」
さ「ノーです・・・暫定的に。」
さ「(この感性になれば)どうでもよくなる。そうなった世界は変わるしか無い。頑張って世界を変えるのは難しい」
こういうのが出てくるから、単なる哲学的思弁ではないぞ。
どうでもよくなったものにはフォーカスし続けられないから、フォーカスが変わるしかなくて、世界は変わるしか無い。
補1:
「私」は現象学的にはどのように現れるだろうか、ってのを考えてみる。
例えば、SとMが会をやってる時の、Sの視覚を写真のように切り抜いてみたとする。
その写真で、これはコーヒーカップ、これはテーブル、これは会計伝票って示すことができる。
しかし、その写真で、これらと同様に「私」を示すことはできない。
にも関わらず、Sの意識においては、これは「私の」コーヒーカップ、あれはMさんのコーヒーカップ、これは「私の」皿、あれはMさんの皿という風に現象している。
ここで、「私の」コーヒーカップから「私」というのを抜いてみても、コーヒーカップの色や形に変化はない。
そのようにして、「私」は無として現象する。
ちなみに、ここでの無は、無と呼ばれうる有としての無だね。
「さやかは時間と空間がない所の存在だ」と言った時に、「時間と空間は無いので、時間と空間が無い所、という言い方もできない」と言う意味での無ではないんだな。
補2:
波多野精一「時と永遠」より。
人が神になろうという野心を持つ、私は神であり全てだと宣言し、独我論を展開する、するとひっくり返って我がなくなってしまう、ということが書いてあるんだな、このメモと同じような内容展開のことが。
波多野精一はバックボーンがキリスト教なので、「人が神になろうなんて傲慢不遜でけしからん、それ見たことか、そんな奴はかえって私というものを失って、空虚に消え去る・滅び去るオチなんだ」みたいな感じのことを言うんだな。
それがさやかにおいては、「私は神だ、私が全てだ、私は無い、ラクになった、万事OK」でしょ。
キリスト教なんてのはオールドエイジの代表みたいなもんだからさ。