アラフォー賢者の気ままな引き寄せライフ~第四密度行ったら本気だす~

気ままにスピ雑談、多少は人が見て勉強になりそうなことを書いていく

グルジェフとキルケゴール

スピと哲学シリーズ第二弾。(もうネタ切れかなー)

グルジェフキルケゴール

私がグルジェフを読んだ時の感想が、「これって実存主義的だなあ」ってものだった。

実存主義ってのは哲学史において、有神論的実存主義無神論実存主義に分かれるが、そうだなあ、グルジェフは言わばオカルト的実存主義神秘主義実存主義とでも私としては名付けたくなるね。

有神論的というとどうも一神教の臭みが強いので。

もしくは、実存主義神秘主義とか実存主義的神智学とか言っても中々しっくりするような気に個人的にはなる。

 

さて、グルジェフの思想を読者は知っているだろうか?

彼の思想を知ろうと思うなら、ニーチェとは違って彼には主著かつ体系書があって、「ベルゼバブの孫への話」を読まねばなるまい。

他の本は細切れだし、弟子の本はそれにプラスして聞きかじりに過ぎないからだ。

但し、この「ベルゼバブの孫への話」は分厚くて、結構読むのがたるいだろう(でも、個人的には読む価値があるし、おもしろいと思うよ)。

この記事を理解するに際して、それを全読する必要はない。

http://bccweb.bai.ne.jp/~arlf4501/G.I.Gurdjieff.htm

こちらのページの「寓話・格言・諺」の馬車の部分で十分だ。

 

という前置きを踏まえたうえで、グルジェフの思想を見てみる。

人間はそもそも機械化の傾向が有り、それに逆らう努力と苦難を持ってして初めて<自己>というものを獲得する。

<自己>には段階があって、それぞれの段階の<自己>を獲得するとそれに対応する不可視の体を手に入れる。

それで、<自己>のない人間は肉体が死ねばそこで終了だが、<自己>のある人間は肉体が死んでもエーテル体やらなんやらでより長い命を持つことが出来る。

ってのが大枠だね。

肉体はその寿命の間、地球を移動することが出来る

アストラル体グルジェフ的な言い方だとケスジャン体)は肉体よりもっと寿命が長くて、太陽系の惑星を自由に移動できる。

メンタル体だと、アストラル体より長く、太陽まで移動できる。

コーザル体だと、さらにより長くて(永遠だったかな)、宇宙全体(だったと思うが)を移動できる。

 

そして、まあ付け加えるべきは、基本的に大衆ってのは絶望的であり、肉体が死んで終了の宿命である、一部の人間のみが<自己>を獲得できるという見方をしていることだ。

グルジェフ・ワークというのは基本的に<自己>を得るためのワークなんだけど、これにも条件があって、ある程度若くて、精神の可塑性が残っている人までしか効果が得られない。

例えば、知的障害がある人は最初からダメ。

例えば、脳味噌含め肉体的健康が申し分なくても、俗物化し、硬直化したものの考え方から抜けれないようになった、まあ言ってみれば、ティーンエイジャーが非難する言葉としての所謂「オトナ」になっちゃった人はダメ。

 

で、次はキルケゴール

ここでは、哲学的著作として有名な「不安の概念」及び「死に至る病」を持ってくれば十分だ。

 

まずはグルジェフでも指摘しておいた大衆ー自己・自分(を自覚できるひと握りの人間)という対立があるということを、実存主義において見てみようか。

哲学史的には、ヘーゲルキルケゴールという流れである。

入り込むとひたすら面倒なので、ざっくばらんに論じるが、ヘーゲルというのは個人というのを無視して社会全体・歴史現象というのにフォーカスを当てた思想を展開した。

彼はナポレオンを見て、「これが世界精神だ」とか言ったらしいが、そういう感じでしか精神を捉えてないんだよね。

というわけで、ヘーゲルってのは大衆にフォーカスしてると言ってよかろう。

これに対して、キルケゴールは、ヘーゲル弁証法という論理の運び方を踏襲しつつも、ヘーゲルの歴史現象・大衆運動的な精神へのフォーカスに反抗して自己の精神にフォーカスした。

その自己にフォーカスを当てるのが哲学界における流れとなり、実存主義となっているわけで、当然自己・自分(を自覚できるひと握りの人間)という分野を担うのだ。

 

ここで、「別に自己を意識する人がいっぱいうじゃうじゃいてもいいんじゃない?」と思う読者もいるかも知れない。

まあ、そうなんだけど、なぜかそうはならないんだよね。

自己を獲得するのは苦難であるからかな。

グルジェフでもそうだったが、キルケゴールでもやはりそうなんだな。

その苦難ってのが、実存主義的には不安と絶望という風に当てはまるだろう。

わざわざ好き好んで不安になり絶望しようって人は少ないだろうからねえ。

 

 次に、キルケゴールにおいて、<自己>の発展に段階がある、ということを見てみよう。

まあ、「死に至る病」が分かりやすいか。

1.自分が絶望の状態にあることを知らないでいる絶望。グルジェフ的に、完全に機械化してしまった様と言っていいと思うんだよね)

自分が絶望の状態であることを知っている絶望。(女性的+男性的)

女性的絶望:2.地上的なものに関する絶望→3a.永遠なるものこと自己自身に関する絶望

男性的絶望:3b.自己自身であろうとする絶望

「1→2→3a⇔3b」という図式で自己が深まっていく。

で、同じような図式は不安に関しても言える。(けれども、「不安の概念」は「死に至る病」より複雑なので略)

 

という感じで、私はグルジェフキルケゴールが似ているな、と思ったとさ。(というのがこの記事の趣旨だ)

この二人は同時代の人かなと思ったら、キルケゴール死んだ辺りでグルジェフ誕生だね。

まあ、グルジェフキルケゴールなんぞ知らなかったろうな。

 

補1:

キルケゴールにとってはこの先にキリスト教の神への信仰というのがあるわけなんだが、グルジェフにとってはそれがそのまま◯◯体の活性となりそれが永生に繋がるというんだから、グルジェフの方が話が単純ではある。

また、死に至る病とは絶望のことなんだが、なんで絶望を死に至る病と呼ぶのか、と言えば、絶望とは死に死ぬ事であるからだ、つまり、生がどうやっても死において終わるということに引っかかって主体的に生きることができなくなる様を言っているわけだ。

そういう意味においては、グルジェフは◯◯体で永生できるという発想なんだから、グルジェフ信じれる人は絶望しないだろうな。

という点において、絶望よりは不安で解説すべきではあるが、不安の概念はより難しいので勘弁。

 

補2:

ちなみにキルケゴール曰く、「自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係する所の関係である。」とのことである。

さて、これを読んで、読者は意味が分かるだろうか?

ヒントとして、彼の信仰の定義を見てみよう、私は超かっこいいと思うんだが、「自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して、自己は自己を措定した力のなかに自覚的に自己自身を基礎付ける」。

このキルケゴール的言葉遣いからすると、自己=見る私、自己自身=対象たる私(私が、これが私だと思う所の私)となるあろう、ちなみに自己を措定した力=神だ。

だから、自己とは、「見る私」が「対象たる私」に関係する所の関係である、となる。(どうもキルケゴールが自己という言葉に「見る私」と関係の二つの意味を待たせているのがダメだったようだ)

例えば、赤ちゃんなんてのは「見る私」を持つけれど「対象たる私」は持たないだろうから、「見る私」と「対象たる私」に関係が生まれようがないわけで、自己とは関係であるという定義からして、赤ちゃんには自己が無いのである。