M「地底世界について話して」
さ「テキトーな話のようで、本当かもという話し方をする」
さ「幽体離脱して、アガルタ行けば?ヘミシングとか。できると知っていればできる」
まあ、そうだねって感じのスピ的には普通の発想。
さ「または、形を持たずにやる、勝手にやる、作家のように。」
地底世界があるという物理的な証拠を持たずに、作家のように勝手に「地底世界はこんな感じなんだ」と想像してしまう、という方法。
さ「考えられる話は現実化する、って原理に従う」
想像が現実化する。
さ「話をでっち上げた時、それがありそうだと考えられるかどうかで、それが自分の知ってる話か知らない話かの差が出る」
さ「でっち上げた話が現実にあるから、発想できたという感触があるかどうか」
バシャールも想像できること、考えられることってのはどっかの次元で現実としてあると言ってるよね。
さ「または、直感、超感覚でダイレクトに見るという方法」
さ「知っているぞという感触が持てるかどうか」
さ「法則を決めるという発想を持てるか。思おうと思えば思えるならば、やればいい。そうであれば、おそらく地底世界はありそうだ」
さ「地底世界が現実的に思えないのは、世界がそう望んでいる、世界は現せたくないという感触」
さ「UFOも同じ」
さ「実際にいる/いないという話を置いといて、世界がUFOを現したいかどうかを考えてみる」
さ「世界は現したがってるという感じがするなら、そうなりそう。つまり、UFOはある」
さ「そうでないなら、UFOがいるということを世に問う人も碌な目にあわなそう」
さ「主観で『ある』という感じを大切にしていれば、や・が・てそうなる」
さ「このや・が・てというのがいつまでも来ないかどうかは、『やがて』というのをどう感じるかによる」
さ「世界に何が現れるかを変えられるのが当たり前という感覚があれば、それができる」
この話ってさやかの宇宙観をよく示していると思うんだ。
世界は客観的に固定したものでなく、主観的な感じ・感触が作り上げている。
私はこうなりたいという事があったとして、それを世界が私を使ってそうしたいかと考えてみてどのような感じが湧くかどうかを見てみることで、それが上手く行きそうか否かが分かるって話は過去にあったね。
さ「知っている話を確定できないという話を知っているぞ。」
世界は魔性だからね。
さ「こういう自覚があれば、新しい世界に行けそう」
さ「留まりたい程そこに留まれない法則ってのがある」
幸せの絶頂でここに留まろう、留まりたいって思うほど、そこから引き剥がされるような経験が多くの人にあるではないかな。
さ「それは知っていることからは焦点を離してしまうから。」
ここが幸せの絶頂だったとしても、「ここはこういうところなのか、分かったぞ」ってなったら次に目が行ってしまうんだね。
さ「だから、世界は転換するように機能する。」
さ「この滅茶苦茶な世界を滅茶苦茶なままで完成していると信じること」
この世界はこのように滅茶苦茶であるという完成なのか、分かったぞってなれば次に目が行って新しい世界に行けそう。