さ「チャネリング存在は実は囚われの身で、自分の承認欲求から人間に高尚な存在っぽく思ってもらえそうな話をしてるんですよ?バレちゃいました?」
さ「チャネリングなんて、どのみちこんなもん」
さ「ここが知りたいという肝腎の話は、誰に聞いても分からない」
私に現れる外的世界は私の反射であるから、私の知らないことは現れようがない。
ゆえに、外的世界の誰に聞いても、何を探しても、知りたいことは知らないことなので知ることができない。
さ「このチャネリングがしょうもないのがよく分かるでしょ」
さ「矢追純一が完成しているように、皆完成している」
Mさんは矢追純一についてそう思ったそうな。
皆、個々人完成している、自己完結している
外的世界が反射であるならば、外的世界も私であり、私は私以外と関わることができない。
さ「会話はない」
凡そ会話というものは宇宙的にありえない、ということ。
普段我々がしている会話(と普通に思っているもの)も、さやか的には自分の反射に過ぎないので会話(他者とのやり取り)ではない。
さ「最初からそうだった、という感触。知ることは思い出すこと」
ニューエイジの一般教義の通り、知ることは思い出すこと。
さ「でも、見ることも聞くこともなく知っているという感性もあるし、見たり聞いたりして知っているという感性もある」
ならば、私は全知ではないか!と思われるが・・・
さ「役割としての私は、この世界がどうかについて全知にはなれない。名前ある私は限界ある私。その私は役割を全うするだけの知しかない。」
さ「だから、各人毎に知ってる話が異なる」
さ「この世界の成り立ちは、各人毎に異なる主観や主張を押し付けあってできている。ので、わけの分からない世界。」
ここで主観や主張を押し付けあうというのは、普通の議論の話でなく、世界の成り立ちについてだよ。
例えば、思念でスプーンが曲がるという主観があり、そんなことができないという主観があり、世界では時には曲がるがいつも曲がるわけではないという割り切れない有様になる。
さ「(各人毎に知ってる話が異なるのに)一つの形をとるというのはどういうことか?」
さ「形になっていない話をする役割をなすのがさやかアンドリュー」
へえ〜。