苦とか恐れとかの原因ってのが、世界が私の知ってる話だけでできているわけではないということなんだよね。
さやか的な筋では。
世界の中に他人の話が混じっているから、何か「やらねばならないこと、すべきこと(または、してはいけないこと)というのがある」という感じが起こる。
だから、何か世界に急き立てられる、押し付けられるという感じが起こる。
これが苦。
次に恐れ。
もし仮に世界が私の知ってる話しかないのであるならば、全てが私である、見ている人も見られているものも私である。
であるならば、何もかもが私でしかないんだから、何も恐れる対象がない。
結局、私の知らないものが世界にあるという前提があって、恐れることができるんだね。
このように見ていくと、私の知ってる話と他人の知ってる話の混在した世界にいるよりも、私の知ってる話しかに世界に行った方が楽だってことになるよね。
S考察
っていう上の話が、さやか的な論じ方なんだけど、チャネリング読み漁るのが趣味な私としては、それって第三密度から第四密度へ行くって話じゃねーのと思うんだよなあ。
バシャール:いままでは他人の波動が入ってしまうことがあったが、これからはあなたの純粋な波動で世界は作られる、みたいなことを言ってたと思うし。
(the PLANET from NEBULA の記事のどっか)
カシオペアン:さて、注意しなさい!次のようだったとしたらどうだろうか:第2密度の存在は、対象を類似性によって知覚し、第3密度の存在は、対象を違いによって知覚し、そして、第4密度の存在は対象を、彼が彼ら全体と合一しているかという観点から知覚するとしたら?
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2590126&id=84676646
で、さやかに何か密度論的な質問をしたら、知ってる話/知らない話論で切り捨てられた。
つまり、密度論はそのチャネリング存在の知ってる話でしかないでしょ、みたいな感じで。
それと、密度論は第一密度→第二密度→・・・第七密度で完成という、進化とか進歩の発想が入ってるけれども、それが時間の無い存在のさやかとしてはお気に召さないっぽいんだよねえ。