「私が見るもの、聞くもの、凡そ私の意識に現れるものは全て私の知ってる話である、もしくは私の反射である。」というのが、どうも本来あるべき姿なんだな。
にも関わらず、私達の生きている所のこの世界はそうではない。私の意識に現れる世界なのに、私の知ってる話に加えて、私の知らない話=他人の知ってる話が入り込んでいる。
S「なんでこんなごちゃごちゃの世界が出来上がっちゃってるわけ?」
さ「分かりません」
さ「高次元の存在だったら何でも分かるということでもないんですよ。本当に分からないんです。もし何でも分かるという人がいたら私も聞いてみたいですね。」
さ「バシャールさんだって分からないんじゃないですか」
このようにして、世界の起源は分からないし、世界で万人にとって何が正しいかということも分からない。
このような世界の分からなさのことを、さやか造語で「魔性」と言う。
さて、この話は抽象論でなく、生活に関係する具体的なものであるということを示す例をとりあげてみよう。
さ「あなたは、あなたの体をどうしたら健康にできるかを知っています。体の具合が悪くなってお医者さんにかかるのはおかしいことです。もしくは、『私の体をどうすれば治せるかあなたに教えてもらおうとした私は頭がおかしいので、診てください』という感じですか。」
M「んなこと言ったってさ、ある程度の標準的な治療があるし、何やってもよくなるというもんでもないでしょ」
さ「それでも、あなたの知ってる話に従った方が良くなる確率は高いです」
・・・という感じなんだよね。
私の世界は私の知ってる話によってできているという本来あるべき世界の在り方からすれば、どんなヘンテコリンなこと、常識的に無意味なことをやっても病気は良くなるハズ。
でもそこで、さやかが「確率は高い」という言い方になって、「絶対、100%そうなります」という言い方にならないのが、「魔性」ってわけさ。
きっとこのページを読んでるような人は代替医療とか、世間の人が「あやしい」と呼ぶような医療にそれなりに縁があるでしょう?
それに関して、ある人は良くなったし、ある人は全然何も効かないという話を聞いたでしょう?
さやか的には、こういう感じ。
補:
S「じゃあ、ある病人に、私が『これは絶対に効く』と思ってる漢方なり健康食品なりを飲ませたら良くなるの?(この病人は私の意識の中にいるのだから)」
さ「その病人の知ってる話によります。(病人自身の信念による)」
S「ある病人自身が『これは絶対に効く』と思ってる薬があったとする。その病人に、その薬と偽って小麦粉とか飲ませたらどうなるの?(プラシーボ)」
さ「効きます」